「こ、う……」


聞きなれない声が、僕の名前を口にする。すっと視線を声の主に移し、血だらけの顔を見つめる。浩、と僕を呼んだ母の傍らに恐る恐る近づくと、彼の枕元に立て膝をする。ゆるり、と緩く口角を上げて、彼は小さく笑った。




――――お願いがあるんだ、と。




不思議なことは山ほどあった。彼はどうして血だらけで病院にいるのかとか彼は僕という弟がいることを知っていたのかとかどうして会ったばかりの僕にお願いをしようと思っているのかとかどうして母は双子の存在を隠していたのかとか。けれどそんなことは関係ないように思えた。わざわざ死にそうな彼に訊くことではないと思った。


なに、と紡いだ声は、自分が思ったよりしっかりしている。そのことに自分で驚きながらも、彼の瞳をひたと見つめる。笑みを浮かべたままの彼は、途切れ途切れに言の葉を落とす。


「やくそく……約束を、してたんだ。……住んでたマンションの、向かいの、マンションの屋上。会おうね、って……」


由花と、約束を。


だから、約束を守れなくてごめんと伝えて。――――それから、




「それから、ぼくを忘れないで」




泣きそうな顔で、彼はそう言った。頷いて、必死に分かったと返す。けれど、ふ、と吐息を吐いた彼は瞳を閉じると、




「ごめんね、チカ」




別の名前を口にして、意識を闇に堕とした。




***


僕は約束を一つ守って、もう一つは果たしていない。彼を忘れない約束は果たせているけれど、君に伝えることは出来ないままだ。


君に、伝えようとはした。けれど出来なかった。