クラシック




またおいでね、と重ねて確認する親父の言葉に相川はなかなか頷かない。
何が理由だと目を細めれば、貯金を崩すわけには、と涙目で応える。



「アホか、お前。金なんざ取らねーよ」

「そうだよー美音ちゃん。
奏成の大切な彼女なのに」

「…親父。いつの間に名前を」

「あ、つっこむとこ、そこなんだ?」



ニヤける親父。
瞠目する相川。
口をパクパクさせて。
彼女、ってとこなんだろ?つっこむべきとこは。
いや、そこはむしろ。
本当のことにしてしまおうかと。



「相川。お前、つき合ってるヤツは?」

「いっ、いないいないいないっ!」

「あれ、だから奏成とは?」

「フン。だから今からつき合うんだよ。
相川が同じ目に遭わないためにはそれがベスト」



いや、マストか?
俺は制服のポケットからスマホを取り出すと、翔太へ向けてメールを送る。



「コンクールまでうちのピアノで練習させるから。
清く正しい男女交際はそれまでの期間限定な。
誰かにまた何かされたら俺に言え。
伊野より強いぞ、俺は」



ピアノの件は破顔している親父へ放った言葉。
その後に続くなし崩し的な囲い込み作戦は、また全く相川の都合なんて無視してるし。
…いや、何もこんなやり方じゃなくたって。
あの女どもへ制裁を加えることも今後の対策をとることも牽制することも情報操作することも。
出来るっちゃ出来るんだ。
常々、重いネコをかぶってるんだから。



…でも、まあ。いい。
これでいい。
これが一番。
今のとこベスト。
俺は自分へ言い聞かせるように呟くと、茫然と立ち尽くしている相川へ、帰るぞ、と声をかけた。



いつもとは明らかに違う俺のペース。
俺のトーン。
でも何となく、楽しくなっている。





相川は親父から軟膏らしきものを手渡され、自宅での手当てについて要領を聞かされている。
俺は部屋の出入口でその様子を見ていたけれど、突然、相川の顔中が朱に染め上げられた不自然さから、何か余計なひと言もつけ加えられたとため息を吐いた。



「…何だって?親父」

「えっ?!」

「余計なこと言われてなかったか?」



相川、お前。
分かりやすいんだな、実は。
両の頬に“なんで分かったの”と浮かび上がってる。
なんでだろう、表情なんて変わらなさげに見えていたのに。



「…素、の。か、か奏成は…怖いけど。
その」

「何だ?」

「…よろしく、ね、と」

「…何言ってやがんだ、親父」



相変わらず俺の隣に並ぼうとしない相川は、気づけば右後方に位置し一定の距離を保ったままだ。
彼女、なら。不自然だと思わないか?これ。



「並ばないのか?普通。つき合ってる2人なら」

「や、あ、あのっ…そのこと、だけど」



病院の自動ドアを抜け外気に触れると、室温とのあまりの差に思わず身震いが起こる。
相川の真っ白な顔はさらに蒼白くなり、肩にかかりそうなくらいの黒髪は風にさらわれ横へ流されていった。



柔らかそうだ、と思った。
風が描く流線に乗るそれ。
カットのせいなのか、天然か。パーマの人工的な要素はない。
強く真っ直ぐではない艶に思わず手を伸ばしそうになって。



…自分の怪しさに、身震いした。
何してんだ、俺。



「…あの…お、かしい、と。思う、の、で。
その…つ、つき合う、って」



怪しい行動の根拠なんて。
目の前で俺にビクつきながら声を絞り出す相川に決まってるんだ。



…根拠。根拠?いや、理由?
相川を見てるだけで自分がままならない気になるのは何故だ。



「…お前さ。
なんでそんなぎこちないワケ?俺と喋んの。そんな怖いか?」

「違っ…!そんなんじゃ」

「…ああ。嫌か?仮にもつき合うの。
お前がちょっかい出されずにピアノに勤しむには良い策かと思ったけど」

「っ、嫌なわけないっ!」



冷たい北風がまた相川の細い髪の毛の間をびゅうと吹き抜けて。
一瞬、表情が隠れた。
だから目元に浮かんだ水滴に気づくのが遅れて。
そうと分かった時には、アスファルトへ落ちるそれらが黒い染みを作っていた。