クラシック

今日は綺麗に音源を録るだけだとあーちゃんは言う。
ヘッドホンを着けたまま、自分一人の世界へ没頭していくあーちゃんに倣って俺も美音と美音の奏でる音だけに耳を傾けた。



何て曲なんだろう。
照明の加減のせいか、美音の白く細い指は鍵盤の白と同化して見えて、それがやけに幻想的だ。
コンクール用の曲じゃねえな。
とても柔らかく甘く優しい音色。
…やっべ。
俺、顔が紅いかもしれない。



あーちゃんは手元のノートパソコンをいじっていた手を止め、小型のそれを俺へ向けてきた。
不意に美音の姿を遮ったディスプレイに驚いたけど。
楽曲のデータベースから検索したのか曲名に『愛の夢』なんて文字が。
…リスト、ね。うん。
ありがとあーちゃん、と声に出したけど聴こえてんのかな。
一気に熱を持った頬を両の手で覆い隠したまま、たぶん超絶ニヤけてるあーちゃんを見ることができない。
愛の夢ね。もう忘れねえ。てか忘れらんない。
何でも良い、って言ったけどさ、うん。確かに言ったけどさ。



美音、って、もしかして。
俺が思ってる以上に、俺のこと好きでいてくれてんのかな。





その後も、あーちゃんと俺は、月の光に照らされたり、燃えさかる炎のように熱い激情に触れたり、英雄になったり、革命に参加したりして。
全身を使って表現する美音が描く音の世界へ惹きこまれていた。
…疲れねえのかな、美音。
本当にアイツ、1時間ぶっ通すつもりなのかな。
この後、バイトなのに。
大丈夫か。



ふ、と。
1曲が終わって、美音は鍵盤の一つ一つに縫い付けられている見えない糸でも引くように、小さな顔の前でそれらを手繰り寄せるような仕草をした。
そうして。
ガラス越しに、目が合った。



(…終わった、のか?)



いや、違うな。
美音はとても綺麗に笑って、だからか笑窪がくっきりと出来上がる。
奏で始めた次の曲に、俺はすぐさざめく波を描いた。



あーちゃんが首を傾げる姿が視界の隅に入る。
どうしたんだろう、と覗き込むと、さっき向けられたディスプレイに『検索結果が見当たりません』という答えが載っていた。



…ということは、美音なりに編集を施した何ぞ有名な曲か、もしくは美音のオリジナル。
とても聴き心地が好くて俺を包み込んでいく。
優しくてでも温かくて、光に反射する白い波が大きくうねったり凪いだり。
ああでも、船が行き交っているのかもしれない、その波の上を。
明るく賑やかで楽しい、活発な空気も感じられる。



弾き終わった美音が小さな手をこちらへ向けて振っているのに気づかないほど、俺はここではないどこか遠く異国の地を旅していた。
何て言う?あの場所。
聴いた覚えがある。



そうだ。“運河”だ。



「最後の、何て曲?」



端的なあーちゃんの問いに美音は「Les berges du canal」とそれは流暢な外国語で答えた。
…フランス語。



自分の名だ。
聞き間違えるはずがない。
俺の名の由来は、まさしくそこから来ている。
運河。カナル、だ。



姉貴の夏休みに合わせて親子3人スエズ運河を旅行していた時、急に体調を崩したお袋の妊娠が発覚したのだと。
音にまつわる名を持つ親父もお袋も、縁深い「カナル」にそれらしく美しい字を当てはめたんだよ、と。
子供の頃から、何度聞かされたことだろう。



俺、初めて知った。
心って、震えるんだ。
琴線に触れた美音の手は、俺のあちこちを揺さぶっていく。



「いや凄いな。ジャンル全然違うけど良い音 聴かせてもらった」

「こちらこそ、ありがとうございました。
きちんと調律されてて…とても弾きやすかったです」



美音も気持ちが昂ぶっているのか、頬の紅潮が白い肌に映えて。
…もう駄目だ、俺。
我慢の限界。



「あーちゃん!CDいつ出来上がる?」

「んー、明後日」

「よし!完成したら連絡ちょうだい!
じゃあ!」



え、と別れのご挨拶もろくすっぽできずに戸惑う美音の右手を掴んでスタジオの外へ飛び出す。
眼の端にケラケラ笑うあーちゃんの崩れた顔が入って来たけど構ってらんない。



「か、奏成く…」

「黙ってろ美音!人目につかないとこ探してんだよ!」



何それ!だか何だか美音の抗議の声が聴こえたような気がしたけど、いや気のせいだ、うん。
たまんねえだろ、我慢なんてできねえだろ。
煽られてねえなんて控えめな解釈できねえだろ。
俺は日本人だけど、今すぐこの路上でキスしちゃったりしてえんだよ!



「お前のプレゼントのがすげえじゃんかーもう!」