クラシック







緩んだ頬がいまだ収まらない美音を連れ出したのは、昼過ぎ。



颯ちゃんだけでなく、颯ちゃんの兄貴の斗夢までも美音に抱っこされたがり、美音の両脇はいつの間にか俺以外の存在で常に埋まっていた。
年中さんの斗夢はまだ許してやろう。
何、陽人も兄貴風 吹かしてんだ。
その割に美音にベタベタしようとして。
和をはじめとした大人連中は昼間っからシャンパンなんぞ飲みやがって、すっかり美音を横取りされた俺をからかいやがるし。
お袋は美音にずっと話しかけっぱなし。



終いにはピアノ部屋へみんなして移動し、美音と陽人の超絶技巧連弾なんてのまで披露された。
…ムカつくくらい息ピッタリで。
こと、ピアノに関しちゃ何の手出しも出来ねえから。
怒りにまかせて美音の腕を引っ張ってた。



「…いつまでグフグフ笑ってんだよ」

「幸せな時間でした」

「辞世の句か」



街へ向かって歩く道のり。
美音と並んでゆるゆる進むのは初めての景色だ。
…ってなこと分かってんのかな、コイツ。



熱を持った頬を鎮めるためなのか、美音は手袋なしの素手を時折顔のあちこちへ当てている。
分かって、ねえんだろうな、コイツ。
何となく悔しくなって、俺は美音の両手を小さな顔から引き剥がす。



驚きで見開かれた双眸を射抜くように見つめる。
中学校脇のフェンスにもたれかかり、俺は両腕で美音を引き寄せた。



「…美音さ」

「…はい?」

「今日ぐらい。俺だけ見とけよ」

「…え?見てるよ?」



…そうですね。間違っちゃいませんね。
確かに今、美音の瞳に映っているのは眼前の俺だけだ。
そういう意味じゃなくてさ。
ああもう、美音ってホント、どっかズレてる。



「…あのなあ。
俺が言いたいのはそういう事実確認めいたポイントではなく」

「あっ!もしかして髪 切ったとか?ごめんね、気づかなかった」

「…うん、もういい」



一度触れたなら、名残惜しくてどこか繋がっていたいと思う。
右手だけ指を絡めたまま、俺はまたゆるりと歩を進めた。
絶対絶対、俺の方が美音のこと好きすぎてんだろ。



「…ねえ、見てるよ?」

「まあ、美音と俺とじゃ多少論点にズレがあってだな」

「さっき…目が合わないかなあ、ってずっと見てたんだけど奏成くん、忙しそ―」「何つった?今」



奏成くん、って聞こえた。
耳触りの良い声で。奏成くん、って。
新鮮かつ耳馴れないこそばゆい響き。



「たくさん気を遣ってもらったけど、やっぱりちょっと心細かったから。目で追ってたんだけど」

「そこじゃなくて…名前」

「あ、れ?」



約束じゃなかったっけ。

しまった痛恨のミス、みたいな表情を俺に見せる美音が可愛い。
うわ、何だこれ。
約束、させたんだぞ、俺が。
お前、無理やりさせられたんだぞ、約束。
ああ、なんかコイツのこういう素直なとこ、すげえ好き。



細くふわふわの髪の毛は颯ちゃんに弄られたせいかちょっと乱れている。
より一層、乱れさせちまうなと思いながらも頭をぐしゃぐしゃに撫で回す俺の手が止まらない。



「うん、約束した。お利口、美音」



ぐしゃぐしゃになるよー、と言いながらツヤツヤの毛並みを撫でられて気持ち良さそうな縁側のネコみたく、目を細め肩を竦める美音の口の端は綺麗に上がっている。



「ごめんな?心細かったなんて全然」

「ううん、楽しかったんだけど馴れてないから…失礼なことしてないかと」

「ぶ。うちのが失礼だったって」



横断歩道の信号は青の点滅で、独りだったらきっと走って渡りきるところだろうけど。
美音との時間は急ぎたくないと思ってしまう。
振り回せる今日の時間は限られてるんだけどね。
不意に いいね、と聞こえた。



「“うち”って響き。すごく良い。
みんな仲良しで優しくて温かくって」

「そうか?」



そんな柔らかで繊細な表現はこれっぽっちも似合わない連中だぞ。
それでも俺が育ってきた過程に常にあった環境だから。
否定されるよか嬉しいに決まってる。



「正月も来いよ、あんなんで良けりゃいくらでも絡め」

「…照れてる?」

「そうだな、美音から名前で呼ばれてるし」

「じゃあ」「却下」



一瞬む、とした表情を取り繕った美音だけど、すぐに破顔して笑い出した。
もう、何だよこれ。
振り回されてんの俺じゃね?
横断歩道を渡ってるだけ、なのに踏み出す一歩が妙に弾むのは、美音のせいに違いない。