クラシック




「…もういいだろ、陽人。
早く迎えに来てもらえよ」

「あ、あー…うん、じゃあ」

「陽人くん」



美音は陽人へそっと近寄るとあまり高さの変わらない耳元へ何事かを囁いた。
…げ、もう何なんだそれ。
あんま俺を格好悪くしないで、美音。
陽人の頬にはほんの少し朱が走ったし。
と思ったらやたらモジモジして俺へ近づいてくるし。
何だそれ陽人。可愛くないけど。



「…相澤くん、あの―」

「…何だよ」

「聴いてくれてありがと!
僕、明日もまた来ていい?」

「前半部分しか聞こえねえ」



ケチ!と言いながら陽人はポケットから携帯電話を取り出し、家へ迎えを寄越すように連絡している。
私ももうそろそろ、とバイトへ向かおうとする美音の控えめな声に俺は振り向いた。



「送ってくから。
で、迎えに行くから」

「え、いいよ、本当に」

「ゴチャゴチャ言わねえの。
俺がそうしたいの。
嫌なら走って逃げてみれば?
俺、絶対追いついて掴まえるけど」



今、この状況じゃなくて。
この先のどんな状況でだって。
俺はそうするよ。
美音が本当に俺を嫌って全力で逃げ切らない限り、絶対追いついて掴まえる。
そんで離さない、ずっと。



「相澤くん、足速いよね…」

「…おう。暗喩って伝わらねえな」



キョトン顔の美音と眉をひそめる陽人を促し俺達はピアノ部屋から出る。
俺と色違いのマフラーを当たり前のように首に巻く美音から目が離せなかった。







「…なんで早足?美音。
競歩の練習デスカ」

「…?
逃げてみれば?って相澤くんが」




バイトからの帰り道。
今日も9時半をほんのちょっと過ぎたところで灰色のドアから飛び出してきた美音。
ニッコリ笑顔と待たせてごめんなさいと笑窪付きで渡部の引き留める声を振り切り、駆け寄ってきた姿は破顔ものだったのに。



「…お前なあ。
嫌なら、って前置きつけただろ?
そんなに嫌か、俺が」

「…追いついて、掴まえて。
…くれないの?」



お前なあ、って。
もう一度ため息とも誤魔化しともとれる荒い息と共に上ずった声が漏れた。
何なの何なの何それ。
誘ってるんじゃないなら何それ。
お前の一言一言を自分に都合の良いように解釈するよう出来上がってんだぞ、俺の思考回路は。
キスしてーんだから。
勘違いしてしまった、その言い訳を何であろうと探してるんだから。



「そういうのが、好きなのかなあ、って」

「どんなんだ、そういうのって」

「鬼ごっこ、的な」

「変態か、俺は」



2・3歩を大きめに繰り出せば美音との距離なんてすぐに埋められる。
手を伸ばせば細い腕なんてすぐに掴まえられるんだ。
そうして抱きしめてしまえば美音の視界は一瞬で俺だけになるのに。




「…相澤くん?どうし――」

「…追いついて、掴まえるのなんて瞬間なんだよ」