クラシック

練習、といっても陽人だってなかなかの腕前。
課題曲はどれも暗譜していて技巧的には文句のつけようがないと思う。
素人の俺が耳にしても、上手いんだと素直に分かる。
それでも美音へ教えを請うその先に欲しいのは“景色”とやらか。



美音はあまり口数が多い方じゃない(放置しといたらずっと喋り続けてるお袋や姉貴とは大違いだ)。
教える立場は苦手なのかもしれない。
技術的な面でのアドバイスは必要とされていない。
陽人の音色を変える何か。
期待されている何か。
律儀な美音はきっとそれに応えようとして、あんな懸命に眉間にシワを寄せている。



また近い、って。
椅子に座る陽人の横に立ち、ところどころ楽譜を指しながら何かを確認している2人の距離が近い。
俺が座るソファーまで聞こえないほど小さな声で。



わざと、なワケがない。
でもあの2人にはピアノという共通項があって、そこは俺には踏み込めない領域。
…いや、踏み込んでもいいんだけど。
どうせトンチンカンなことしか出来ない。
なんか、モヤモヤする。



陽人が美音を見つめる視線に、熱が籠もっているのは確か。
昨日までもそれは宿っていたのかもしれないけど、知り得なかった美音のバックグラウンドを知って温度の種類が変わったように見えた。



…ひょっとして俺、しくじったのかな。
何か違う方向へクソガキを励ましてしまったのか。



そうして考え込んでて気づかなかった。
相澤くん、と呼ばれていた。
美音はソファーの俺の隣へフワリと座ると顔を覗き込んでくる。
…何その表情。退屈?って心配しちゃって。
ウルウル瞳に俺だけしか映ってないじゃん。
キスして?って勝手に吹き出し付けるぞ。
フワフワ頭をクシャリと撫で回しながら何だよ、と訊けばやっと笑顔がこぼれた。



「一緒に、聴いて?陽人くんの演奏…感想を、言ってあげて欲しいの」

「俺が?」



俺はド素人だぞ?
分かってると思うけど、そう訝しむと、笑窪もらえた。
え?なんで今、笑窪?
俺、そんな嬉しがらせるようなこと言った?



「相澤くんの感性は、凄いと思うから…その、ピアノが弾けなくても、音には触れてきてるし。
きっと、本物をたくさん感じてるでしょう?」

「んー、難しい。美音の言葉」



本物を感じてる、って?
頬杖をつきながら美音をじっと見つめる。
自身のその行動は美音が俺へ何を伝えたいのか探ろうとしている所以で、そんな風にたった一人へひどく関心を寄せている自分など、ほんの数日前には想像も出来なかったと笑みが浮かんだ。



「…本物の、音とか。絵画とか美術品とか。
場所とか、書物とか、香りとか。
一流の…洗練された、そういう物がきっと相澤くんの周りには、たくさんあったと思うわ。
そういうのが、相澤くんを磨いてるのね」



褒められるのは、慣れている。
驕らず謙遜しすぎず、礼の仕方も交わし方もそのさじ加減も知っている。
…はずなのに。何だろう、この。
超ストレートに俺の心臓を抉る抒情的な言葉達。
いやお前の感性のが凄いだろ、マジで。



そうして聴こえてきた陽人の音は、俺を夜の闇へと連れて行く。
甘い眠りに誘われるような心地好さ。
弾き終わった陽人と美音からどうだった?と勢い込んで問われ、俺は素直に浮かんだ景色を口にした。



「…それ、本当?相澤くん。
この曲、知らないで本気で言ってる?」

「曲名なんざ知らねえよ。
何となくバッハ、くらいしか俺には分かんね」



あ、止めろ美音。
そんな満面の笑み、陽人に向けてんじゃねえよ。
陽人もデレデレしてんじゃねえ!



「美音ちゃんとねえ、教会みたいなとこでね?
夜、2人で一緒に眠る前に瞑想してるとこ思い浮かべながら弾いてたんだあ、ずっと!
甘ーい感じでさ、気持ち良かった!」

「…あ、そう」「…テメ」



そうかこんな感じか!と。
何かのきっかけを陽人は掴んだのかもしれない。
今までずっと楽譜ばっかり頭の中で描いてたんだ、もしくは空っぽ!と美音へ力説し、美音はそれをニコニコしながら黙って聴いている。
…うん、モヤモヤする。
すっかり2人の世界、形成しやがって。