クラシック

受付で親父か姉貴を、と呼び出してもらう。
受話器を下ろした受付の何とかさんから、10分待ってとのことです、とにこやかに告げられた。
…名前覚えらんねえな、あの人の。
いや、受付の人ってコロコロ変わるから。



座って待ってろ、と言ったはずなのに相川はボンヤリと突っ立っていた。
言いつけを守ってなかったことにちょっとムッとしたものの、無理もないかと苦笑する。



待合ホールに置いてあるのはピアノ。
縦型の…何て言うんだったか、姉貴が昔 使ってたもの。
自動演奏機能が付いているらしいそれは産科婦人科を訪れる女性患者さん達へ癒しの音楽を奏でている。



「弾くか?」

「…えっ?!…い、いいの…?」

「いいさ。
オルゴールの音よか生演奏の方がずっといいだろ」



今日は午前だけの診療日だからか、結構な人数が診察を待っている。
恥ずかしくないか、とチラと思考を横切ったがいそいそと椅子の高さを調節している相川を見れば下手な勘ぐりだったらしい。



…こと、ピアノが絡むと。
途端に瞳が輝きだす。
表情も柔らかで、口元に笑みすら浮かべて。
いつもののったりした動きからは想像しがたいほどサクサクと所作を繰り出すこれは本当に本物の相川なのか。



ホールはいつの間にか、相川の指から生まれる優雅な空気に包まれる。
鍵盤の音が本物だと分かった瞬間こそ、相川へ奇異な視線を投げかける患者さんもいたものの、すぐに誰もがそれまでの姿勢に戻り耳だけを熱心に傾けた。



…勿論、俺も。
すぐ傍で。






「何て曲だ、さっきの」



名残惜しそうにピアノへ目を遣っていた相川をこちらへ向かせたいと思った。
…本当に、お前。
ピアノが絡まないと俺のこと視界にも入れないわけ?



「あ…え、と。ト長調のメヌエット」

「ふーん。あ、こっち」



階段を上り、親父のプライベートルームへ向かう。
10分待て、と指示したのは親父だったらしい。



「あの…あ、相澤くん、は…」

「何だ」



珍しい。
相川の方から喋りかけてくるとは。
しかも初めて名前、呼ばれたかも。
もうちょっとこのぎこちなさが消えればと思うけど。



「…ピアノ…弾かない、の…?」

「弾かね。つか、弾けね」

「……そっかあ。残念」

「何がだよ」



クルリと振り向いて相川を真正面から見据えた。
不意を突いたせいか相川のクルクルの瞳は見事に俺だけを映している。
途端に顔中、いやシャツから僅かに覗く首までも真っ赤に染まるのは何故なんだ。



「…や、何でもな…」

「不自然。答えになってねーだろ。何が残念なんだ」

「あ、ああ、の…」

「奏、女の子をいじめなさんな」



突然、相川の背後のドアが開いて親父の顔が飛び出してきた。
…何だ、そのニヤけ顔。
ああしかも。
さも助かったと言わんばかりに相川はホッとしている。
いや、後から追及するからな。



「…いじめてねえよ。診てやってくれ、この怪我」





基本的に親父は女に甘い。
姉貴にもベタ甘だ(だからアイツは28にもなって未だに親父を“パパ”とか呼ぶんだと思う)。
医療器具が様々に乗ったカートをカラカラと手元に引き寄せながら、どうしたのその傷、と。
優しく優しく相川へ問うている。



「友達を…こう。暴力は良くないな、と。
格好良く止めようとしたのですが」



こう、と両手を広げる相川。
小柄なせいか、残念ながら全く格好良くはないな。



「ケンカか何か?女の子が?穏やかじゃないねえ」

「…そう、ですね、ハイ。でも結局転んでしまって」

「…顔から?」



俺に向けるぎこちなさは不思議と親父との会話に感じられない。
むしろ、何だ、その。時折見せる柔らかな表情は。
俺には無いだろ、それ。



「…手を。咄嗟に庇ってしまったんです。
それで」

「コイツ、ピアノ弾くんだ。
来月コンクールに出場するんだと」



俺の補足説明を目を細め何故かニヤけながら聴いていた親父は、相川の顔の左側に数ヵ所点在するすり傷を丁寧に診ている。
縫うほどではないと診断を下すと、カートの上のピンセットにアルコールへ浸した脱脂綿を挟み、保健室では拭い取れなかったとみえる小さな泥や汚れをなぞり取っている。



「コンクリートの上へ転んじゃったの?
痛かったねえ、しばらく痕が残るよ」



打撲痕も、と女にとってはあまりありがたくないであろう言も、にっこり笑ってそうですか、と答える様から察するに。
ピアノを弾く両の指が無事であったならさして問題はないらしい。
やっぱり変な女、相川。
綺麗で真っ白な顔してんのに。
痕、残るんだぞ。