クラシック




「…嫌なのか?美音」



そっと美音にだけ届くよう耳元に声を落とした。
しばらく躊躇った後、美音の頭はフルフルと横に振られる。
緊張、という掠れた響きが聞き取れたけど、本当にそれだけ?



「陽人、無理言わないで。
ママ、これから寄るところあるし」



息子の願いを素気なく取り下げるとママさんは椅子から立ち上がり出口へと向かう。
その冷めた瞳は少年 陽人へ有無を言わさず同行を促していた。



「大丈夫だよ、ママ。
帰りはこのお兄さんに家まで送ってもらうから心配しないで?」



美音のことは一旦、視界から外し、
ね?と見上げてきた仔犬のような人懐っこい笑顔に正直たじろいだ。
……何だ、この激変ぶり。
てか、変わりすぎ。怖っ。



…ん?待てよ。
つい最近、同じ様なことを各方面から言われ続けてんのは誰あろう、俺じゃねーか。
なるほど。
コイツも、かぶってんのか。重いネコ。



「…ああ、いいよ。
ちゃんとご自宅まで送り届けますから」



ご安心を、とママさんへ爽やか笑顔を向ける。
…このクソガキ。
チ、とか舌打ちしてんじゃねえよ。
帰りに川に突き落として差し上げんぞ。



「…あなたは?」



訝しむママさんの様子は無理もない。
さっきから事の成り行きをハラハラしながら見守る先生も、俺の正体は知りたい訳ね。



「相川さんとおつき合いしてます、相澤と言います。
父は八坂町にクリニックを開院してまして…姉も以前、こちらへお世話になっていたんです」



あああの、とママさんは表情を和らげ瞳から冷たい色を少しだけ剥ぐ。
クソガキは気に入らないらしくまたも小さくチ、と舌打ちし、美音はピクリと反応した。





じゃあ美音ちゃん、と先生に促され美音はゆるりとピアノへ近寄る。
椅子の高さを調整し細く白い指を握ったり伸ばしたり、準備運動のように揉みほぐしたりしながらピアノだけに向かっていく。



(観客は俺だけだ、美音)



ちゃんと聴いたことないから(居眠りぶっこいたのは俺だよ、ごめんて)ちゃんと聴かせて、と。
背中を押しながらまた耳元で囁いた。
まあ、セリフとしてはキザったらしいけど。
要は、クソガキなんざ無視しとけ、っつー意訳ね。



「…彼氏?美音ちゃんの?」

「…そういうこと。黙って聴いてろ」



ほら、美音が。
別の美音を纏っていく。
綺麗なんだけど、可愛いんだけど。
ほんわりとした真白なオーラを美音の地だとすると、何色もの色が鮮やかにそこへ混じっていく。



俺は、巨匠達の曲なんてロクに知らないけれど。
時にそれは規則正しく。
虹色のようでもあり。
境界線も曖昧に幾重にも重なったり。
そんな映像というか感覚が溢れてくる。
聴いていたい、もっと。
楽しそうに嬉しそうに踊り跳ねる美音の繊細な指も。
見ていたい、もっと。
…心地好くて眠くなったりも、するんだけどね。



「!…何これ…なんでこんなに…、」



隣に座るクソガキが悔しそうに歯噛みする。
俺は横目で盗み見、盗み聞きしながらポソリと呟いた。



「…ジェラシー?」

「………。
彼氏…こそ。ジェラシーじゃないの?」



またこのクソガキめ。
会話を成立させたけりゃ分かるように話せっての。
顔を覗き込むと底意地の悪そうな笑顔を向けてくる。
うーん、お前の素はそれなのかどうなのか。



「…僕、美音ちゃんにキスしたよ?」