クラシック

間近でよくよく見てみると。
美音の顔の左側は綺麗に手当てされているとは言え、若干赤黒く腫れている箇所がありガーゼや絆創膏が痛々しい。
さっきはまるで余裕無かったんだけど唇の端にも擦過傷。
…キス、とか、したら。
痛いかもな、これ。



差し伸ばした手で頭を撫でる。
しっとりと指に吸いつく黒髪が気持ち良い。
傷の一つ一つへ柔らかく触れ、あと2日で治らないかと願う。
神様、こんな時ばっかり勝手言ってんじゃねえ、とか。
怒るだろうな。



「…メシ、食おう」



これ以上触れていたら、間違いなく美音を食ってしまう。
…23日に。傷が治ってたら。
そんな俺の思惑も知らず、固まったままの美音の手を取るとダイニングへ引きずった。




「美音、そのへんの適当に食って」



明らか一人分の準備だ。
美音に聞けば親父と姉貴は予定より早く陣痛が始まった妊婦さんの対応へ出向き、お袋はカルチャースクールとやらへ出かけたらしい。



「…私、言い出せなかったんだけど…」



お弁当、作って来たの。

そう言って美音は学校指定のカバンではないバッグから小さな包みを取り出した。
何冊かのテキストや楽譜らしきものも入っている。



「あ、じゃあそれ、俺にくれ」

「…相澤くんの“じゃあ”は、時々おかしい…」

「なんでだよ。彼氏にお弁当、って王道だろ女子高生の」

「…知りません」



俺が座った位置を見届けてから美音はその斜め前に座る。
なんでだよ。



「…緊張、する」

「昨日、お袋とは平気だったじゃねえか」

「…お母さん、だったもん」



相澤くんじゃないもん。

細く呟きながら包みを開けた美音の手の内から、俺は身体と手を伸ばし弁当箱を奪い取った。
人をニヤけさせんじゃねーよ、まったく。



「あっ、ちょ、駄目だって!」

「ごちゃごちゃうるせーな。早く食え、そして練習しろ」

「残り物だよーそれ…。庶民の味だよー…」

「あ、うっま!美味いな、この混ぜご飯。お前が作ったの?すっげ。なんでこんな小せえの?弁当箱」



ガタ、と椅子を揺らし美音の真正面へ移動しても、美音は薄く笑ってため息を吐いただけでまた席を移ろうとはしなかった。
いただきます、と手を合わせ細い指が綺麗に箸を操る。





他愛ない話をした。
休みの日は何してる、とか。
よく読む本、とか。
好き嫌い、とか。
圧倒的に俺の言葉数が多いけど、ポツリポツリとそれでも懸命に会話を成立させようとする美音。
ああ、やっぱ俺、好きだなコイツのこと。
女って人の話は聞いてるふりしてその実、自分の話ばっかしたがる生き物かと思ってたけど。
美音に関してだけは改めよう、その考え。



お弁当箱を洗わせて欲しい、と言ってたはずなのに美音はいつの間にかうちの皿や箸まで綺麗に洗い上げていた。
…なんつーか、もう。うん。
良い子だなんて気恥ずかしい言葉が自然と浮かぶ自分自身が怖い。



「美音。ピアノ聴いてていいか?」



それじゃ、と再びピアノ部屋へ向かおうとする美音の背中へ声をかけた。
ゆーっくりと振り向かれれば、その顔にはどうして?と書いてある。



「…面白く、ないよ?」

「別に面白さは求めてねえよ」

「退屈じゃ…」

「んな訳ねえだろ」



はいはい、ともうそれ以上を言わせないように美音の背中を押しながら、俺はリビングに置いていた雑誌やハードカバーを手にピアノ部屋へと向かう。
ふと視線を感じると低い位置にいる美音からチラチラと盗み見られていた。



「…何?」

「…本、読む?」

「駄目か?」



フルフルとかぶりを振りながら美音はなおも何か言いたげに口を開きかけては閉じ、唇を舐める。
…ヤバ。なにそれ。



「…眼鏡、したまま?」

「外したら読めねえ…ああ、お前」



眼鏡男子好きなのか?

言いながらクイ、と顔を近づけた。
分かってた。
瞬時に美音の顔から発火しそうなほどの熱が迸ることくらい。
それでも予想通りの反応に俺の片方の口角は上がる。



「…め、いやっ、あの!眼鏡、男子じゃなく…」

「ああ、俺のこと好きなんだよな」

「…も、いいです…」



何だよ、まだ何か言いたげだな。
そう言って美音を小突いてもいいの、何でもないの、と繰り返すばかりで鍵盤の上の蓋を開け、譜面台に楽譜を置き始める。




何となく美音の口元が緩んでいたから。
俺はそれ以上を追求するのは止めてソファーに沈み、読みかけの本を開いた。