不法侵入、と笑われながら、ちょっと腰高の磨りガラスを乗り越え、保健室の中へ入った。
あ、コイツ。
呑気に茶なんぞ飲んでやがる。
「手袋、汚してねーだろな」
「失礼な。むしろ泥ついてたから優しく丁寧に手揉み洗いしてあげたっていうのに」
手渡される時の視線と言葉の裏に“奏にはここまで出来ないでしょ”と密かな自慢が隠されている気がしてムッとする。
ちょっとデキる男ぶりやがって。
俺だって美音のためならそれくらい。
そう思いながら先ほどポケットに入れたもう片方を取り出しきちんと手袋として成立させると俄かにホッとした。
「まだちょっと濡れてるかも。あそこの前で乾かしてけば?」
あそこ、と顎で示されたのは業務用の大きなストーブの前。
転倒だか火傷だか防止用の柵で囲んであり、濡れたタオルが何枚か掛けられ薄く蒸気が立ち上っている。
俺は頷くと手近にあったパイプ椅子を引き寄せ、楕円形の小窓からオレンジ色に覗くじんわりした熱の前に移動した。
「で、昨日はどこまで?」
「…このエロ保健医。誰に何聞いた?」
「調 叔父さん。
僕達、メル友なんだよね」
…親父。
これも嬉しさゆえ、ってやつか。
実の息子へ送信したことはなくとも甥っ子へは絵文字までつけちゃうワケね。
ほら、と見せられたスマホのディスプレイを前に俺は嘆息する。
『速報!奏に彼女ができたんだよ』って。
そんなノリで情報の共有をするのは止めてくれ。
ハートの絵文字の使い方、間違ってるだろうが。
柵の縁にバランス良く手袋を掛けて熱を受けさせる。
重ねて で?と迫る和を鼻であしらいコーヒー、と返した。
「僕だって影の功労者なんだよ?
少しくらい聴かせてくれても」
「待て待て。
勝手に褒めてもらおうとすんな、兄貴ヅラしやがって」
「えー。でも。
美音ちゃんの恋の相談にのってあげてたの僕だし」
「…テメ」
聞き捨てならないポイントが2つだ。
1つ、美音ちゃん、って何だそれ!
俺の彼女を気安く呼んでんじゃねえ!
2つ、恋の相談って?
美音が好きなのは俺だったはずだよな?
ああもう、コイツの前ではどこまでもポーカーフェイスを保ちたい。
でなきゃ末代まで語り継がれることになる。
俺がたまたま(たまたま、なんだ本当に。寝る前に調子乗って麦茶飲み過ぎたんだ)オネショした小学1年の夏休み事件を、姉貴と同い年のコイツはいついつまでも親戚中の酒の席で持ち出してきやがるんだから!
「コーヒーでもお淹れしますから。
手袋乾くまでお話しよーよ、奏」
「キモ」
早く、乾くといいのに。
美音の手袋。
早く。見たい、あの笑顔を。
俺は深く静かに息を吐く。
ドリップ式のフィルターからトポトポと濃い茶の液体がマグカップへこぼれ落ちる音に耳を傾けた。
「美音ちゃん、は止めろ。
そんなら話してやってもいい」
「おお、どこまでもエラソだね!ありがとう奏成様」
深い緑色のマグカップが俺の目の前へ差し出される。
左目のコンタクトが無いから焦点が上手く合わず、俺はゆっくりと手を伸ばし受け取った。
「眼鏡は?奏」
「家にはある。帰るまで何とかなるだろ」
それより、と。
恋の相談って?と。
出来る限り平静を装い抑揚の無い声で問い質す。
ああまた。
ニイッ、と綺麗に上がる両の口の端が意地悪すぎるだろ、和。
俺もこんな顔してんのかな。
俺とコイツではいくばくか、共通している遺伝子があるはずだから。
「最初はねえ、いつだったか。去年の…文化祭の後、かな」
腹痛を訴えて保健室へやって来たらしい。
生理痛か、とか(マジで何てこと訊いてやがんだ、無性に腹が立つ)淡々と質問を繰り返していると、ずっと考えていることがあって、と。
肩を落とし弱々しく告げられれば看過できるはずもない。
そう熱く語る和はロリ趣味だったろうかと疑ってしまう。
「てめえの主観なんざどうでもいいんだよ。美音の考えごとって?」
「告白された、って。
でも好きな人がいて、どうしよう。
さて、この好きな人とは一体誰でしょう?」
「俺だろ、そこはいいんだよ。
それより誰だ?美音に告ったヤツって」
何そのスルー、とブツブツ呟きながらコーヒーを啜る和はもう少し俺の驚きが欲しかったらしい。
見せるか、そんなもん。
