クラシック

倉庫の奥の、本当に奥の隅に。
古びたグランドピアノが置かれていた。
家にもあるから分かる。
それが奏でる美しい旋律。
音の正体は、これか。
こんなものが、こんな所に。



いや、正確には違うな。
音の正体は。
それを生みだしている人間の正体は。
この位置からは見えないから不気味じゃないか。



一歩を踏み出し、声をかけようと思っていた。
それが誰であっても。
十中八九、ピアノを弾く人間の性別は女のような気がしていたから(偏見だと言われても仕方ない。俺は性別女が家でピアノを弾くとこしか見たことが無い)突然殴りかかられるような事態は想定外だろうとふんでたし。



(……え。相川……?)



同じクラスの、相川だ。
2年になって初めて同じクラスになった、と思う。
あ、から始まる名前を持って生まれた者の宿命のように、何かと先頭になる機会が重なった。
今も席は隣。



(コイツ…すげえ…)



姉貴の下手くそな演奏を何度聴かされてきたことか。
それとは比べものにならない超絶技巧だということは、いくらド素人の俺でも理解できる。
白く細い指達が、白と黒の鍵盤の上を踊るように弾んでいく。
時に陶酔し時に泣き出しそうに時に笑いながら。
手の動きと連動するようにコロコロと変わる相川の表情。
こんなに豊かな感情の持ち主だったのか、コイツ。
知らなかった。



恐らくは一曲が終わったのだろう、相川の指が鍵盤をふと離れるまで。
俺は声をかけられずに、傍らに立ち尽したままだった。
閉じていた目を開けふう、とにこやかに息を漏らした相川とカチリと目が合った瞬間。
ボ、と音が出そうなくらいの勢いで相川の顔中が朱に染まる。



「……え。え?ええっ?!な、なな…ど、して?!
ああ、あい…」

「相澤、だ」

「いえっ!そこはっ!存じ上げてますっ!」



ほらな。
こんな風に普段の相川は、妙にしゃちこばった顔をしている。
というか、そんな顔しか見たことがないぞ、俺は。



「な、何、を…しておいでなのか、と…」

「相川こそ何してんだ。
俺は先生に言いつけられてここの掃除」

「え、あ?!掃除?!」

「…の、下見」

「…あ、下見…」



相川はそんな会話の間に椅子から立ち上がり、鍵盤の上の蓋をパタンと閉じた。
番いの金具が軋んだ音を上げる。



「…あ、の」

「…何だよ」

「…掃除、するってことは…」

「…ああ。この倉庫内一斉処分決定らしい」



やっぱり、と肩を落とした相川。
次いで、いつですか?と問われた。
何故に敬語。同じクラスだよな?俺達。
日付を告げればそうですか、とますます項垂れる。
でもそれはほんの数瞬で、仕方ない、と呟いたと思ったら椅子の傍に置いていたカバンを手にした。



「……では、あの。
す、すみませんでしたお邪魔して…」

「待て待て。
邪魔したのはどう見ても俺だ」

「いえ…いずれにしても帰る時間で」

「…お前。何ださっきからその敬語。
俺が年寄りくさいからってバカにしてんのか」

「め!めめめ滅相も!ございませんっ!」

「…滅相もございませんて。
言うか?今ドキの17歳が」

「ご、ごめ、んな…」



あーあ。
相川、泣きそうだ。
こんなつっかかるつもりはないんだけど。
何だろうな。
俺の目の前で表情が変わる様を見るのは、正直面白い。
音を奏でてる最中ではなく。



……オイ。俺って。
こんな嗜好の持ち主だった?



二の句が継げずに固まっている相川に一歩近づけばギクリ、と効果音を立てそうなほどにさらに強張る身体。
おーお。
相当怖がられてんな、俺。



「…相川」

「…は、い」

「やっぱり、と、そうですか、と、仕方ない、の説明しろ。
単語の意味じゃねーぞ。
さっきの、お前の話」



新学期からこっち、見たばかりの指の動きは別として、隣の席の相川はあまり俊敏な方じゃないと思う。
どっちかっつーと、トロい。
成績は、悪くなさそうだけどな。
新しいクラスでいきなり委員長なんてのに名指しされるくらいだから。
それでも俺の質問の意味をよくよく斟酌するには時間かかりすぎじゃないか?



「……ど、どうして…?」

「は?何が」

「…どうして、そんなことを…質問されるの、か。
…が、分かりませ…あ、や!えー、分からない…」

「…ぎこちない日本語だな。
気になるからだろーよ」



言って、ふと考え直した。
気になる、って。何が?俺。
……相川の、こと?



「……んな辛気臭い顔で帰られたら。
俺が最後通告つきつけた悪魔みたいだろ」

「悪魔…」

「そこに反応すんな」

「す、すみませ…」



いや、本当に。
俺は一体。
何が気になってる?
また泣きそうになった相川へ質問の答えを促した。