クラシック

ああ、ヤバ。
薄暗くて見えないかもしれないけど、今こんな至近距離でニヤけたら違う意味で目を見開かれてしまう。



「練習してこなかったのか、頭ん中で。
俺の名前、呼んだりしなかった?」

「…そ、んなの」



無理だったよ、と。
相澤くんは雲の上の人だった、と。
息も絶え絶えといった風で美音は口にした。



「何だそりゃ。俺は神か」

「…や、あの…見てるだけで…」

「…見てるだけで、良かったのか」



別にこうなりたくはなかったのか。
つき合わなくても?
彼氏と彼女、にならなくても?
言いながら低く沈む声音に自分でも気づいている。



「ち、違っ、違うからっ!
ああもうー…上手く…」



うん、今。
美音の顔が歪んでしまって泣き出しそうなのは夕闇の中でも分かる。
きっと、分かりたい、と。
思っているから。



「ああ、よしよし。落ち着け、泣くな」



俺は名残惜しくおでこを離し、美音の顔を俺の胸元へ押し当てるように小さな後頭部を撫でた。
ダウンのファスナーのとこ、美音の怪我に当てちゃ駄目だ、と。
思いやれてる自分に、少し驚き少し安心する。



「…お、落ち着けない…」

「注文多いな、テメ」

「そ 、あの、そういう」

「分かってる。美音が言いたいことくらい」



ドキドキし過ぎて落ち着けない、ってことな?
美音が先に俺のこと好きになってたからって。
なめんなよ。
音の速さで追いついてやるから。
いや、光速で追い越してやる。





甲高い複数の声が緩やかな坂の上から近づいてきた。
…チ。
さすがにもう、帰らなきゃ。
ゆっくりと身体を離し、ゆっくりと握りしめていた手を離す。
美音。ちゃんと。
分かってるか?
俺は本当はもっとこうしてたいってこと。






薄い灰色の建物に吸い込まれていった小さな背中を確認して。
ほどなく明るくなった2階左端の部屋の窓。
あそこが美音の部屋かな。
カラ、と無機質な音をたて窓が開き、白い影がそこから覗く。



キリがないこのままじゃ。
こうしていても。
あーあ。
うちに連れて帰りてえな、美音。
ぼんやりと周囲を照らす外灯では俺の姿なんて確認できやしないだろうけど。
それでも俺は小さく手を上げ、ポケットに突っ込むと踵を返した。
途端にヴー、とスマホが小さく震える。
画面をタップすればさっき登録したばかりの名前が浮かび、俺の顔は怪しく綻んだ。



『気をつけて帰ってね。このへん暗いから』



…心配症のお袋か、美音。
俺は男だ、っての。
心の呟きをそのまま即返信するけれど、液晶画面を見つめても見つめても変化はない。
そのうちスリープ状態になって真っ黒なディスプレイへ舌打ちが漏れた。



…うん。まあ。
返信は5分以内、なんて決まっちゃいねえけど。
美音にだっていろいろ都合はあるんだろうけど。
アホみたいにスマホと睨めっこしたまま立ち尽くしていた俺の数分間。
道行く人から不審な目線を投げかけられてんじゃないのか、俺。
通報とか、されねえよな。





帰り道が、遠い。
同じ距離を同じ様に歩いてんのに。
力ない足取りがそう感じさせてんのか。



どうして力が入らないのか、なんて。
考えないことにした。
あまりに俺っぽくなかったから。
それでも家の玄関を開けたと同時にポケットの中の手は小さな振動を感じ、それだけで意味もなく勢いがついた俺自身は。



もう、昨日までの俺と同一じゃないことくらい分かっていた。