クラシック

真剣に聴いてれば結局はおちゃらけやがって。



…それでも、と思う。
無関心でいる代わりに無関心でいてくれ、と暗に願ってきた。
他者との関わり無しでも生きていけるような気がしていたから。
うちには。
お金も、そこそこの愛情も、整えられた生活環境も、安定も、将来の道筋も。
労せず生まれながらに備わっていてそれらは全て、身内から与えられるものだったから。
そうしてそれらを背負ったそこそこの容姿と明晰は望外、人を引き寄せた。



そうやって手にしてきたものと失ってきたもの。
俺は一体、どちらが多いんだろう。
美音とのこれからで分かるんだろうか。



いや、違う。
本当はもう、分かってる。
損してきたんだな、俺。
だって現に、美音からの好意に気づかなかった時間は、言いかえればもっと共に過ごせたはずの時間ってことで。
俺は無碍にしてきたんだからさ。



何かを取り戻したくてこうも躍起になってるワケ?俺って。
唇にはまだ、美音の熱が残っている気がした。






コーヒーでも飲もうかとリビングへまた戻ると、お袋が携帯電話で何やら絶賛トークを終えたところだった。
本当に、お気楽主婦は。日中、人が勉学に勤しんでる最中に普段から何やってんだ。



「ねえちょっと!今、大澤の奥さんに聞いたんだけど、凄いのね!美音ちゃん!」

「愛する息子と会話してぇなら分かるように話せ。
大澤さん家の奥さんなんざ、俺は知らん」



飲みかけだった紅茶をまた慌ただしく啜ると、お袋は大澤さんの奥さんはね、と話し出しだ。
いきなりそこかい。
まあ、今の俺は寛容だからな。



「美音ちゃんと同じピアノ教室に通ってらっしゃるの」

「美音と同じピアノ教室、って…」



いつの間にそんな情報を。
訝しんだ俺の目線に気づくことなく目をキラキラさせたお袋は自分勝手に話を進めていく。



「お家の手伝いもよくしてるし礼儀正しいし今どき古風な清純派美少女だし。
凄く上手なのね!ピアノ!」



自分に陶酔するように熱く流暢に語り続けるお袋を、こうなったら誰も止められないことを家族なら知っている。
しばらく喋らせておくか、と放置プレイを決め込んだ俺へ、でもね、と一気にトーンダウンした声がかけられた。
…なかなか巧みな話術じゃねえか。



「小さな頃からコンクールには何度か出場してて。
いつも惜しいところまでいくのに賞には絡まない。
どうしてなんだろう、ってみんなは不思議に思ってる」

「巧いと思うけど。姉貴よりよっぽど」



お袋は俺を見、壁や廊下をすり抜けるようにピアノを弾いているであろう美音の方へ視線を遣った。
何とも言い難いように眉尻を下げて。



「ピアノ。
本格的に続けていくとなると、それなりにお金がかかるから。
律歌ちゃんは完全に趣味で終わってしまったけれど」



そう言ってお袋は黙り込んだ。
俺は何となく、その先に続けたい言葉が分かったような気がした。



遠慮がちな美音。
口数も多くない美音。
母一人子一人でずうっと過ごしてきて。
バイトまでして家計を助けている。
華美なところが見受けられない慎ましやかな生き方は。



美音に。
大好きなことで何に囚われることもなく上を目指す未来を諦めさせようとしているのか。
それはとても勿体なく思えた。







普通に声をかけても、美音はきっと気づかない。
それなら、と。
そっとピアノ部屋の重い扉を開けた。
すぐ傍で。見つめていても邪魔にはならないだろう。



何してるの、と問われたら。
おやつの時間だから呼びに来た、と答えれば良い。
実際、そうなんだから。
なんて質疑応答を自分でシミュレーションしながら苦笑が漏れた。
こんなの、生徒会の議事進行でも考えたことないっつの。



美音の小さな背中はほんの少し丸まって、ピアノが愛しくて愛しくて堪らない、と。
…告ってるように見えるの、俺だけか?
そんな至近距離で美音に触れられて。
撫でるように愛でるように時に激しく時に悲しく。
狡いなピアノ、お前ばっか。
そんなたくさんの感情ぶつけられて。



ピアノ部屋の奥に小さめのソファーが置いてある。
姉貴が練習している時に、お袋がつき合ったりしていたから。
嫌がる俺もしぶしぶ座らせられた過去があるけれど、今こうして自ら座って聴いていたいと。
想える音に、相手に、出逢えるなんて。
想定外、ってあるんだな。



今、聴いてる曲は分からない。
さっきまでのは多分、バッハだと思うんだけど。
あの独特の…教会でパイプオルガン聴いてるような気にさせられる音。
大体、曲名とかよく分からないんだ、俺。
ああでも。
それって美音と話すきっかけになるのかも。
きっとアイツ、ピアノの前じゃ饒舌に語り始めるだろうから…。