「…っ、な、んで、って…」
そう漏らす美音の言葉の間には、ヒ、とか、近い、とか緊張と怯えが混じっている。
いやいや、この場合怖がらせてる俺が悪いんじゃない。
お前が悪い。
そう念じるように想いを視線に乗せれば、だってね、と息も絶え絶えに繋げられる。
「翔太くん…名前で呼んでね、って…そのっ。
帰国、子女だから…その方が、違和感ない…って」
…クソ。翔太め。
アイツ、なんつー嘘をつきやがる。
「アイツは山田小学校・市立北中学校・そして現在に至るだよ。日本出たことなんざ一度もありゃしねえ」
「…え。そ、うなの?」
好き、かどうかは。
結局確認できず終いだったけれど。
ああ、いやもうほぼ確定だな。
アイツは女子を大抵、下の名前で呼ぶけれど(そのフレンドリーさが何の役に立つのかと思ってしまう)。
呼ばれることはそうそう許さない。
「…そうなんだよ。でも今から禁止」
ああ、マジで。
近いな。
腕を伸ばして壁との空間に押しこめていたけれど。
肘を曲げて壁に近づけば、自然 美音との距離は尋常ではなくなる。
紅く染め上げられた頬が白い肌とのコントラストを描いて綺麗だ。
怪我が無けりゃもっと綺麗だろうに。
対象物としての女へ綺麗だという感慨を抱いたのはいつ以来だろう。
ウフィツィで見た聖母子の絵画が最後だったような。
「百億万歩譲って“くん”付けでも良しとしてやる。
言ってみ?」
「……相澤、くん…」
「……テメ。
んなこと言うのはこの口か。
いや、意外と笑いの基本を押さえてるなと褒めるところか?」
言いながら美音の唇をつまんだ。
お、柔けー。
やっぱ翔太のとは違うな。
リップやらグロスやらでテッカテカしてる訳でもないし。
あれは辟易する。天ぷら食ってきたのかと思ってしまう。
「…うううー…おえんあさ…」
「ほれ頑張れ。言わねーと次は鼻だぞ」
「…む、無理…」
「おーお、聞こえねーな。やれば出来る子だろ?美音」
俺は何をこんな躍起になってんだ。
名前くらい、どうってことないのに。
それでも俺は“相澤くん”とだってまともに呼ばれたことが無いのに。
翔太への対抗心?俺の自尊心?
いや、もしかして、ひょっとすると、嫉妬?
「…か、なるく、ん…」
細く、こぼれ落ちた声。
柔らかな波長に乗って俺の耳へとじんわり入ってくる。
目の前の小さな唇から紡がれたとにわかに信じられないほど、俺の意識は瞬間 遠くなる。
本当に、お前って。
かなるくん、の5文字だけで何をそんなに奪って行くんだよ。
初めてじゃないのに。
女から名前で呼ばれるのは。
それなのに、変なの、俺。
何かからキュッと掴まれた。
ああいや、訂正。
美音が掴んでいった。
俺の、無関心を。
もうとっくに、か。
「…大変良く出来ました」
壁にぴったりとくっついていた美音の小さな頭。
後頭部へ掌を差し入れ、ワシャワシャと撫でくり回した。
細い髪の毛がふわりと指に絡んで気持ち良い。
そのまま肘で身体を起こすように立たせ、俺の隣へと並べる。
「練習しとけよ。反射で口から出るくらい」
ふるふるとかぶりを振りそこに起こる風に、無理、と乗せる。
美音へ触れた部分は、妙に熱を持っていた。
リビングへ戻ると俺は少し離れたソファーに座り、美音とお袋の会話に耳だけ傾けるフリをした。
その怪我どうしたの、に始まり、お袋は実に巧みに美音から言葉を引き出す。
母一人子一人。
父親とは2歳で死別。
それをきっかけに母親の実家に近いこの街へ引っ越して来たらしい。
働く母親を助けようと家事一切を請け負い、バイトまで。
…うちの学校、バイト禁止だけど。
大丈夫、そんな心配そうに見つめなくてもチクったりしねえよ。
「美音ちゃん、今度の3連休もアルバイトなの?」
「はい、あの…他のバイトの人達もいろいろと予定がおありのようで」
3連休だっけか、と。
壁のカレンダーへ目をやれば確かに振替休日の赤い数字が3つ目にきている。
…ああ。なるほど。お袋の確認の意図が分かった。
昼の情報番組に煽られてんじゃねーよ、まったく。
「あら。あらあら。クリスマスは奏と一緒に過ごさないの?」
「………」
「別に。世間の浮かれ調子に合わせなくても」
もう男の子って!という呆れの声が聞こえたけれど。
いや俺だって呆れる、敬虔なクリスチャンでもあるまいし。
そう返してやるかと思った時、あの、という美音のか細い声が聞こえた。
「…先月…その。バイトのシフトを決める時には…。
こんな…想像も、してなくて」
そう漏らす美音の言葉の間には、ヒ、とか、近い、とか緊張と怯えが混じっている。
いやいや、この場合怖がらせてる俺が悪いんじゃない。
お前が悪い。
そう念じるように想いを視線に乗せれば、だってね、と息も絶え絶えに繋げられる。
「翔太くん…名前で呼んでね、って…そのっ。
帰国、子女だから…その方が、違和感ない…って」
…クソ。翔太め。
アイツ、なんつー嘘をつきやがる。
「アイツは山田小学校・市立北中学校・そして現在に至るだよ。日本出たことなんざ一度もありゃしねえ」
「…え。そ、うなの?」
好き、かどうかは。
結局確認できず終いだったけれど。
ああ、いやもうほぼ確定だな。
アイツは女子を大抵、下の名前で呼ぶけれど(そのフレンドリーさが何の役に立つのかと思ってしまう)。
呼ばれることはそうそう許さない。
「…そうなんだよ。でも今から禁止」
ああ、マジで。
近いな。
腕を伸ばして壁との空間に押しこめていたけれど。
肘を曲げて壁に近づけば、自然 美音との距離は尋常ではなくなる。
紅く染め上げられた頬が白い肌とのコントラストを描いて綺麗だ。
怪我が無けりゃもっと綺麗だろうに。
対象物としての女へ綺麗だという感慨を抱いたのはいつ以来だろう。
ウフィツィで見た聖母子の絵画が最後だったような。
「百億万歩譲って“くん”付けでも良しとしてやる。
言ってみ?」
「……相澤、くん…」
「……テメ。
んなこと言うのはこの口か。
いや、意外と笑いの基本を押さえてるなと褒めるところか?」
言いながら美音の唇をつまんだ。
お、柔けー。
やっぱ翔太のとは違うな。
リップやらグロスやらでテッカテカしてる訳でもないし。
あれは辟易する。天ぷら食ってきたのかと思ってしまう。
「…うううー…おえんあさ…」
「ほれ頑張れ。言わねーと次は鼻だぞ」
「…む、無理…」
「おーお、聞こえねーな。やれば出来る子だろ?美音」
俺は何をこんな躍起になってんだ。
名前くらい、どうってことないのに。
それでも俺は“相澤くん”とだってまともに呼ばれたことが無いのに。
翔太への対抗心?俺の自尊心?
いや、もしかして、ひょっとすると、嫉妬?
「…か、なるく、ん…」
細く、こぼれ落ちた声。
柔らかな波長に乗って俺の耳へとじんわり入ってくる。
目の前の小さな唇から紡がれたとにわかに信じられないほど、俺の意識は瞬間 遠くなる。
本当に、お前って。
かなるくん、の5文字だけで何をそんなに奪って行くんだよ。
初めてじゃないのに。
女から名前で呼ばれるのは。
それなのに、変なの、俺。
何かからキュッと掴まれた。
ああいや、訂正。
美音が掴んでいった。
俺の、無関心を。
もうとっくに、か。
「…大変良く出来ました」
壁にぴったりとくっついていた美音の小さな頭。
後頭部へ掌を差し入れ、ワシャワシャと撫でくり回した。
細い髪の毛がふわりと指に絡んで気持ち良い。
そのまま肘で身体を起こすように立たせ、俺の隣へと並べる。
「練習しとけよ。反射で口から出るくらい」
ふるふるとかぶりを振りそこに起こる風に、無理、と乗せる。
美音へ触れた部分は、妙に熱を持っていた。
リビングへ戻ると俺は少し離れたソファーに座り、美音とお袋の会話に耳だけ傾けるフリをした。
その怪我どうしたの、に始まり、お袋は実に巧みに美音から言葉を引き出す。
母一人子一人。
父親とは2歳で死別。
それをきっかけに母親の実家に近いこの街へ引っ越して来たらしい。
働く母親を助けようと家事一切を請け負い、バイトまで。
…うちの学校、バイト禁止だけど。
大丈夫、そんな心配そうに見つめなくてもチクったりしねえよ。
「美音ちゃん、今度の3連休もアルバイトなの?」
「はい、あの…他のバイトの人達もいろいろと予定がおありのようで」
3連休だっけか、と。
壁のカレンダーへ目をやれば確かに振替休日の赤い数字が3つ目にきている。
…ああ。なるほど。お袋の確認の意図が分かった。
昼の情報番組に煽られてんじゃねーよ、まったく。
「あら。あらあら。クリスマスは奏と一緒に過ごさないの?」
「………」
「別に。世間の浮かれ調子に合わせなくても」
もう男の子って!という呆れの声が聞こえたけれど。
いや俺だって呆れる、敬虔なクリスチャンでもあるまいし。
そう返してやるかと思った時、あの、という美音のか細い声が聞こえた。
「…先月…その。バイトのシフトを決める時には…。
こんな…想像も、してなくて」
