クラシック




この静けさにあっては床を進む一歩すらキ、と響き渡る。
カタ、と椅子の高さを調節しペダルを踏む足元へ目をやると、美音はグランドピアノの右側へふと視線を投げた。



(…何してんのアイツ…)



見慣れた制服の袖口から華奢な手がすい、と伸びていく。
魔法の手。
一本一本の指は小さくて細くて先なんて丸っこくて可愛くて。
でも節々にはちゃんと鍛えられた力強さがあって。



元は、白と黒の二色。
モノクロの世界は美音を欲する。
鮮やかに彩って欲しいと。
導かれるように美音は両の手を鍵盤へと翳す。
惹きこまれるように息を飲めば、そこからの主導権は全て美音が握った。



(ああ、そっか…)



美音の優しい視線が置かれた先は。
俺の定位置じゃんか。
うちのピアノ部屋で来る日も来る日も練習に没頭する美音の傍ら。
ソファーに埋もれてただじっと聴き入っていた、俺のいつもの場所。



心の臓を押さえていないと心細くて。
俺はシートの上で膝を抱え縮こまる。
奏クマ、ごめんな。
苦しいだろ?
ちょっと間、辛抱してな?






最初の一音がやや気を持たせるようにみんなを吸い寄せていく。
驚け、そして平伏しろよ?
美音の十指はそこから最初の課題曲を奏で始める。
重なり合う音達に少しの濁りも澱みもなく、清らで澄んだいつまでも浸っていたい世界。





連れてって、美音。
もう、美音がいなかった時のことなんて思い出せないくらい。
美音の世界へ。





楽しそう、と翔太が呟いた。
そうだな、翔太。
俺達凡人のそんな表現がぴたり合ってるかどうか分からないけど。



美音は、とても楽しそうに弾いている。
そこに変な気負いはなく。
ピアノが好きで好きでたまらないと全身で訴えている。
見てるこっちが、ちょっと妬けるくらいに。



戯れるように音を愛でていたかと思えば、不意に曲調は変わり、凛と引き締まる。
小さな身体から発されるとは信じがたいほど身体の芯に響く低音。
愛しいものを追いかけるように十指が駆け上る高音。
音色が変化を告げるたび、美音を取り巻く空間の色は変わる。
そうして つと、視線は空を捕える。





気のせいなのは、分かってるんだ。
それでも美音が時折、小首を傾げそこにいるエアーな俺へ問うているように見えた。
どう?って。どうだった?って。
俺にピアノに関する基礎知識が無いことなんて美音も充分理解してる。
それでも俺を決して置き去りになんかしないんだ。



どんな色が見えたのか、どんな景色が広がったのか。
いつだってこんな俺の感覚を尊重してくれた。
時に心地好く眠りに誘われたとしても、眠る前の瞑想の曲だからね、とにっこり笑って。



見えてるよ、美音。
仄暗い夜明けの冷徹さも降りそそぐ陽の光の温もりも沈みゆく夕陽の切なさも。
教会もレンガ造りの街並みも行き交う人々も市場も喧噪も風も大地も。
感じてるよ。



なんだこれ。
目眩く走馬灯きてんじゃん。
美音と俺との30日、みたいな映画作れそうじゃん。
死んじゃうの、俺。
んなワケにはいかないんだけど。
ああでもなんか、泣きそう。