クラシック

「しーちゃんね、願かけ?してんだって」

「…願かけ?」

「今日、真っ先に口にする言葉は“優勝おめでとう美音”しかあり得ないから。
他のこと喋るのイヤなんだって」



アホくさ、なんて。
暴言は吐けなかった。
自身が試される局面を何度も迎え乗り越えてきたであろう伊野だからこそ。
試されるのが大切な友達だからこそ。
もどかしさを、ブレる自分を、縋りつける何かに求めたって。
それは弱さでも逃げでもないだろ。



神に頼り願うのではなく。
自分を律する何かをチョイスするところがまた伊野らしいっちゃ、らしい。
やっぱいいヤツ。
口元を引き結び、スマホを手繰ってLINEで翔太とチマチマ会話する姿は笑えるけど。



「ストイックだな、伊野って」

「…“アンタはちょっと我慢が足りないわよ、自制することを覚えろバカレシ”だって。
アーンド、呆れ顔スタンプ」

「いや、じゅーぶん我慢してるだろ?
主にエロいこと方面」

「…“滝に打たれてこい”って。
ちょ、もーめんどくさい!電番登録しなよ、お互いに」



へらりと笑って、そんなきっかけをくれた翔太に胸の内で感謝した。
…伊野は、どう思うか分かんねえけど。
彼女の友達まで自分の友達だなんて。
こそばゆいけどそれはイコール嬉しいんだと思う。



翔太越しに伊野へスマホを向けながら、緩む口元を隠せなかった。
俺の、それまでの生き方には見出せなかったシチュエーション。
くるりと変わった世界の起点はやっぱり美音なんだ。




中学生の部が始まると場内アナウンスが告げる。
遅くなって、という覚えのある声に顔を上げれば美音のお母さん登場だ。
軽く頭を下げながら伊野の右隣へ座る姿を確認するや、ブザーの音とともにライトダウンした空間へ静謐が戻ってきた。





スマホが微かに震え、LINEの通知が入る。
“吐きそう” だって。
いや、気持ちは分かるけどな伊野。
もしもの時はトイレへ急げ。



二度目のこの休憩が終われば、いよいよ高校生の部。
受付でもらったプログラムを見れば2年生の美音は3番目に演奏する。



「吐きそうなの美音ちゃんの方じゃない?
もうお昼近いけどご飯食べれてんのかな」

「小さなおにぎりは持たせたんだけど…どうかしらね」



俺のスマホを覗き込みながら翔太がしみじみ呟くと美音のお母さんが物憂げに応える。
親御さんの気持ち、って。どんなんだろう。
陽人の演奏が終わり場内が明るくなった時。
ピアノ教室で見かけた陽人ママは、少し前の席で目頭を押さえていた。
隣に居たのは陽人パパさんかな、苦笑しながら細い肩を抱きかかえて。



俺も、泣くんかな。
今にも背筋を駆け上りそうな緊張は、興奮は。
きっととんでもない感動と相まみえるはず。
だって、知ってるからさ。
美音のピアノが連れてってくれる景色はただただ惹きこまれる、ってだけじゃなく、頑張りと努力にきちんと裏打ちされたもの。



だからやっぱり、泣くんかな。
どっちかっつーと、笑ってたいけどな。



「…ん?」



美音からのメール。
慌てて立ち上がると座面がバタンと勢いよく音を立てた。
姉貴の隣にはいつの間にか和が座っていて、みんなからの視線が突き刺さる。
休憩時間はあと何分?