クラシック

ぜんぶ、って。聞こえた。
え、全部、って。言った?



ほんのり朱に染まった頬を撫でさする繊細な指。
抓られたわずかな痛みが潤ませる大きな瞳。
この身長差から見上げられれば頭の芯がじんじんと一気に熱を持つ。



「…知ってるよ。んなの」



ぱちん、と目が合った。
ふわり、と笑みが浮かぶ。
一瞬ごとに惹きこまれる。
あーくそ、チューしたいんですけど。
さすがに人目が気になる日本人だ。
なんて思ってたら美音の視線はふいと陽人を向いた。



「凄いよ?頑張れるの」

「…一応 聞こうかな美音ちゃん。
一体何の話デスカ?」

「陽人くんもギューってしてもらったらどうかな?奏成くんに」

「…してもらったんだね?奏成くんに」

「魔法みたいなのね。凄いの。
ぶわーっと力がね」

「…分かりづらいし想像したら気持ち悪いし。
何なのもう…」



ふふふ、と首を竦め微笑む美音の肩を抱き、もう片方で陽人を引き寄せた。
陽人だけギューってのはちょっと勘弁して?
でも小生意気なコイツがさっきから若干テンション高めなのは、ざわつく胸の内を誤魔化したいからじゃね?



「ちょ、もうー!何?!僕そういう趣味ないんだけど!」

「っるせーな、黙ってパワー注入されとけ」



てっぺんの、その先に。
何があるのかは分からない。
分からないから、知らないから、怖いと思っていた。
暗闇で踏み出す次の一歩は固い地面を捕らえられるとは限らないだろ?



「1等賞しか要らねえぞ、陽人。
意味分かってんな?」

「…相澤くんにあげるんじゃないもん。
ほんっとエラそう」

「ふふ。頑張ろうね、陽人くん」



何だろう、もう今からこの高揚感。
まだ、美音はステージに上がってもいないのに。
俺は今すごくワクワクしている。



するりと抜けていく美音の身体。
陽人の背を押し集合場所へ向き直る。
もう一度、肩越しに振り向いた美音は笑みの形から唇を何事か動かした。



「!…っ、マジ知ってるっつーの」



“だいすき”



声にも音にもならなかった愛の告白はそれでも。
俺にはちゃんと届いた。
美音、頑張れ。
陽人もな。
手の内の奏クマを愛しく握りしめながら2人の背中を見送った。






息を継ぐのも忘れる、ってのはこういうことなんだと体感する。
一人が舞台の袖から中央へおずおずと進み、ぎこちなくお辞儀をし、それに応えるようにざわりと波打った客席は徐々に静けさを取り戻していく。
張りつめた空気が場を奪い返すと、客席の小さな咳払いすらやけに耳につく。
そんな中、震える手で椅子の高さを調節しペダルの踏み心地を確かめ。



ふわり、と。
何かを手繰り寄せるような優しい手が鍵盤の白と黒を掴む。
最初の一音が響く。
俺達は呼吸を忘れる。



「…はああー。すっごいねえ」



そうして一人が終わるたび、いつしか前のめりになっていた上体をビロードの椅子の背へ深く沈めなおす翔太。
高学年の部、陽人が弾き終わったところで最初の休憩を迎えた。



「陽人くんさあ、クリパの時よかずっと上手になってたね?
なんつーかこう、迷いなく弾いてるっつーか、ブレが無いっつーか」



音で景色が描けないんだと悩みもがいてたガキはどこへ行ったんだか。
堂々たる姿にほんのり悔しさがこみ上げてきた…りしてなくもない。



「…だよな。
お子様の成長は著しいよな」

「見てた?弾いてる最中、笑ってたよ?余裕あるんだねえ、オレだったらチビリそう」

「翔太、緊張しいだからなー。
お前、あの袖から舞台の真ん中まで出てくるだけで制限時間オーバーしそう」

「右手と右足一緒に出してね、コケたりして。
あり得そう、オレだったら」

「つか喋れよ、伊野。
ダンマリのお前って怖い」



俺の左隣にはずらりと家族が居並んで、右隣には翔太、その向こうに伊野。
…なんだけど。
開演直前に客席へもぐりこんできた伊野は以来一言も発してない。
具合悪いのかと思うだろ。
ふるふるとかぶりを振る伊野を優しく見、翔太は俺へ向き直った。