クラシック

「…大丈夫かな、私…」

「…いや本当にな?急に何の話 してんの?」

「………」

「会話は言葉と心のキャッチボールなんだぞ、美音」



おおーい、とわざとらしく呼びかけても腕の中の美音は頭をふるふると振るばかりで一言も応えようとしない。
いや、時々 うー、とか呻いてるけど。何それ。
まあ、いいけどな。
右に左に小さな美音を揺らしたりして。
何だろう、コンクールの…決戦の朝だというのにこの緊張感の無さ。
俺だけか?



美音の両手は引き寄せた時の勢いのまま、俺の胸に当てられてる格好。
スウェット越しにもじんわり熱を持ち始めてるのが分かった。
よしよし、身体温まってきた?
熱い紅茶でも飲ませて、そうだいつまでもこうしちゃいらんねえよな。
美音、最後の最後まで練習したいかも。
名残惜しいけど美音から一旦 離れないと、と俺へ預けられていた華奢な上体をゆるりと引き剥がした。



「…え。ちょ、美音?!おまっ、どうした?!
あっ、熱あんじゃねえのか?!
ったくあんなとこで寒いのにぼーっとつっ立ってるから!」

「えええー…違っ、…」



慌てて掌をおでこに当ててみたところで正確な体温なんて分からないんだけど。
急な発熱、とかではなさそうだ。
それにしても首まで真っ赤だし、美音。
ソファーに座らせ、体温計持ってくるから、と踵を返した時だった。



「か、奏成くんっ、あの…違う、大丈夫だから…」



スウェットの下、腰のあたりを小さく摘ままれて。
ソファーに浅く腰かけたまま俺を見上げる美音の大きな瞳は温まってきたせいなのか、違う何かのせいなのか、深い黒が綺麗に澄んで見える。



「何言ってんだよ、お前あと何時間か後には大舞台に立つんだぞ?
ここまできて体調悪くて、とか泣くに泣けねえだろ!」

「わ、悪くないよ!体調悪くないし…あの!
ちょっとこう…妄想が」

「…もうそう?」

「…あの。なんかもう…か、奏成くんでこう…頭の中、いっぱいで。
今日、大丈夫かな私、嬉しくて楽しくて幸せでそんな気持ちしか音に乗らないんじゃないかな、もういっそ奏成くんがピアノなら良いのに、俺様ピアノってどんな音色かな、とかって」

「…っ、えええーもう!
何なんだ美音ー!なんだその可愛いの!
いや俺様ってちっと聞き捨てなんねーけどな!
口くっさいのにチューすんぞもう!」



あああもう、拷問も同じだこんなの。
好き、とかって表現はただただ直接的な言葉で伝えるんじゃなくても。
ビシビシと俺の胸を撃つ。
アレだよ、キューピッドの放つ弓がハートに突き刺さる、みたいなさ。



美音に出逢う前の俺ならきっと鼻で笑って小馬鹿にしてただろう。
そんな風に心動かされる出来事なんて、こんなくそ面白くもない毎日に起こるはずない、って。
それがどうだい、今じゃ。
好きな子のほんの一言に、表情筋は崩壊だ。
理性だって、ぶっ飛びそうな。



「…あとで…ね? してくれると、嬉しい、と思う」

「…え、これ本物美音?小悪魔だ、どうしよう、誘われてる俺!
まさかこんな日が来るとは」

「…ピアニスト・ハイ、だよ、うん」



また ふふふふふ、と奇妙な笑い声を小さくたてる美音を、もう一度腕の中へ閉じ込めた。