クラシック

くしゃん、と歪んだ相川の顔。
頬に添えられた指の間を縫うように透明な雫が流れ落ちていく。
…泣かせたい訳じゃ、ないのに。



「…しみるぞ、傷に」



美音、と。
優しく届けばいいと暗に願いながら口に出す。
なお一層大きく見開かれた瞳に映っているのは俺だけ。
ほらまた。
ズクズクと俺の胸の奥が蠢く。



手を伸ばして触れた。
相川の頬に、指に。細い髪の毛に。
さっき浮かんだ、笑窪のあとに。
熱に浮かされたような相川のぼんやりとした表情が、俺の何かを剥いでいく。
思えば昨日からお前は俺を翻弄しすぎだと思う。



「…なあ。好きに、決まってんだろ」



気づけよ、本当に。
お前だぞ、平淡な俺の心をザワザワと乱していくのは。
言葉にするとより鮮明に感情が伴ってくる。



「…は」

「は、って何だよそういうことだよ。
期間限定だのピアノの練習だの、結局は口実だよ口実!
関心がねえとか決めつけやがって」



ああ、本当に。
改めて自分の言葉を耳にすると自覚って深まるもんだな。
ほらまた何かが剥がれ落ちていく感覚。



「美音じゃんか、俺に関心ねえの」



薄く微笑みながらゆるりと放った言葉に、美音は存外素早く反応した。



「そんなことないっ!絶対、絶対ないっ!私っ…!」

「…何だよ?」

「…ずっと…、見て…」

「何を?」

「ねーえ、まだ?お昼に…」

「………」



…ああクソ。
お約束か、これ。
いや、確信犯か。



チラと横目でお袋を刺せば、重いドアのノブを右手に握り開け放ったまま、奇妙な表情を見せている。
…何あの。感情が定まってない顔。
俺は思わず噴き出した。



まあ、無理もないか。
育て方 間違ったかしら、と。
男の子って分からないわ、と。
心の声をダダ漏れされたのは一度や二度ではない。
それが。ねえ?こんな様。
見せられちゃ開いた口も早々には閉じないか。



美音と俺との距離は単なるクラスメイトのそれじゃない。
恐らく纏っている空気は、蕩けるほどに甘い。



「…ごめんね?奏」

「…お年玉 増額で」



美音はさっきからピクリとも動かない。
瞬きもせず固まったまま。
目ぇ乾かないか?それ。
俺はまた噴き出した。



“何を”見てたのか。
追及はまた後で。






お袋をちょいウザイな、と感じるのは思春期青年にありがちだと思うけど。
今日のお袋は良い仕事をしている。
口が重い美音から上手く情報をつまみ出す。
さっきはごめんね?とこっそりニヤリ顔でまた謝られたから挽回したい気持ちはあるらしい。



「え、もう12年もピアノ続けてるの?凄いわねえ、奏なんて何やらせても長続きしなくて。
好きなの取って食べてね?好き嫌いは?無いの?偉いわ、あ、美音ちゃんがご飯作ってるの?良い子ねえ」



…最後の良い子ねえ、は高校2年女子にどうかと思う。
褒められ慣れてないのか、美音は顔中を真っ赤にして落ち着かなさそうだ。
と思って見ていたら、珍しく目が合った。
ピアノ、無いけど。ここ。



「どうした?」

「…ごめんなさい…あの…お手洗い…」

「早よ言え。バカ」



バカ、って酷いわ!とお袋の怒声を背に受けて俺は美音を目で促した。
うちは無駄に広いから口頭説明しにくいんだ。
すぐ後ろを小さな足音がついて来る。
何となく、心地好い。



「ほんっと、お前。遠慮しすぎ」

「…ごめんなさい…」

「ここ、な?待ってるから」

「えっ?!い、いい…」

「早よ行け」



パタンとドアが閉じ美音の頼りなげな様を吸い込んで行く。
はい、という従順な返事とともに。
内なる奥底で膨らむのは庇護欲?征服欲?
俺は緩む頬を誤魔化すように掻きながら壁にもたれて美音を待った。



恐る恐るトイレから出てきた美音の表情は、本当に待ってたんだ、という驚きを如実に物語る。
分かりやすくなってきた。



「美音、こっち」

「…な、名前…本当に…」

「何だよ、呼ぶっつったろ?許可 要んのかよ?」

「…うーいえもう…はい。お好きに…」



観念したように俯き首を振る美音を右肩越しに見やる。
はあ、と浅いため息。
けれど嫌で嫌でたまらない、という風ではないな。
こういうのは嗜虐心、っつーの?



「美音も好きに呼べよ?奏でも奏成でも」

「…翔太くんは…奏ちゃん、って」

「呼べるもんなら呼んでみろ。つか、お前」



リビングまでもう少し、という所で俺は美音を閉じ込めた。
前門の俺、後門の壁。
囲うのは俺の両の腕。
壁ドンだな、流行りものキタ。
いや、聞き捨てならねえからさ。



「…なあんで“翔太くん”?」