じゃあ、帰りましょ。
…いや。
帰りましょー、ってな感じに間延びして聞こえた姉貴の声。
今日は午後休診でもねえのに。
何 いそいそと支度してんだ?
「パパがねー、送って行ってあげなさい、って。
本当はパパが行きたいところだけど、まだいろいろ残ってるんですって」
「…姉貴、は。残ってないのかよ?」
残ってるも何も。
時に患者さんは家族よりも優先される。
そんなの、医療従事者をごく身近に抱える者にとっては子どもの頃からの“当然”だ。
「いいの、今日は。
美音ちゃんは、うちの大切な患者さんだし」
「奏の大事な彼女だもんねえ」
あら、パパ。
診察室のドアがカチャリと開いて覗いた呑気な顔に俺は短く息を漏らす。
どいつもこいつも緊迫感に欠けるったら。
俺なんて今日はずっと胸がざわついて落ち着かないってのに。
「…“もん”やめろっつったろ?ジジイのくせに」
「あ、ねえ律ちゃん。こっちの車 使って?」
俺のイヤミを華麗にスルーした親父は、国産ハイブリッドカーの電子キーを姉貴へ手渡そうとした。
姉貴は、と見るとあのドイツの高級外車のキーを手に 何故?と訝しく親父を見つめ返している。
…いやいやいやいや。
姉貴、返せそのキー。親父へ今すぐ!
スリーポインテッドスターの形が変わってしまうかもしれんて!
「…あのね、律ちゃん。
ママを説得して買ったばっかりなんだよね」
あの車ね、Sクラスなんだよ、とちょっと泣き出しそうな親父を横目に俺は美音の背と膝裏へ腕を回し苦笑する。
車好きの翔太には親父の涙目の理由がよくよく分かるのかもしれないけど。
伊野と俺は美音のカバンに入っている家の鍵を確認して、まだですか、と事の成り行きを見守るばかり。
「だって、パパ。5人乗れなきゃ」
「大丈夫だよ、こっちの車も5人乗れるし小回りきくから」
「でもぶつかった時、負けそうじゃない?」
「ぶつかる前提で話 しないで律ちゃん!」
「ふふ、大丈夫よー、免許持ってるんだから」
「…免許持ってる子がみんな運転上手なら事故は起きないよねえ…」
渋々、といった体で姉貴は親父とキーを交換する。
よしよし、それ最良の選択と決断だぞ。
俺も安心、みんなのために。
姉貴の運転はおっとりボンヤリの外見に似合わず暴走特急だからな。
乗り込んだ車中の後部座席で伊野は、美音のガラケーを何やらポチポチ触っていた。
この荒々しい運転の最中に器用じゃねえか。
どうやら折りたたみを開けてすぐの画面へメモを貼りつけているらしい。
チラと覗き見る文面。
入力出来る文字数はきっと限られているのに。
『明日は応援に行くね。
あたしとの約束、忘れないで』
居丈高な伊野らしいっちゃ、らしい。
“あたしとの約束”ってのはおそらく優勝します宣言を指すのだろう。
俺の右側へ全身脱力で身を委ねる美音の穏やかな寝息を耳にしながら思った。
頑張れ、と。
軽々しく美音だけに明日の結果を任せない応援の仕方。
顔文字も絵文字も無くデコってもない真っ直ぐさは、明日きっと美音と同じ15分間を体感する覚悟の表れか。
そんな女の友情って悪くない。
美音、良い友達持ったな。
助手席でシートベルトにしがみつきながらも伊野が差し出す美音のガラケーを受け取る翔太と肩越しに目が合う。
ニパッと浮かぶ笑みに、俺も良い友達を持ったとフツフツこみ上げる不可思議な心地好さを噛みしめた。
