クラシック




結局、お袋は斜向かいに住むばあちゃん夫婦のお手伝いさんから惣菜をデリバリーしてもらうことにしたらしい。
手抜きだな、オイ。
それでも、美音ちゃん呼んで来て、と偉そうに命じられた。



「…奏?」

「…ん?ああ…、呼んでくる」

「翔ちゃんとケンカでもしたの?」

「…いや」



ケンカにもなりゃしねえよ。
一方的に言いたい放題 口にしやがって。不完全燃焼だ。
それでも翔太の言葉を反芻し深意を探りたいとする俺。
それは。
相川と俺との関係にもきっと関わってくることだから。



「…おーい。メシ…」



防音室なのにドアをノックしようとした己の馬鹿さ加減に苦笑しながら重いドアを開けた。
相川の小さな身体はまだしなやかに揺れては止まる。
しばらく見ていると同じ箇所を何度も何度も繰り返し練習しているようだった。
んー、とか。ああ今の、とか。
ブツブツ呟き、小さな手を見つめ、プラプラと手首を振り。



「…なあ」

「うわっ?!あ、」

「相澤、だ」

「ですからそこはっ!」

「ああ、知ってんだったな」



ピアノの前に置かれた椅子は横に長く鍵盤の端から端までに亘る。
ゆうに2人は座れそうなそれ。
高音域側に位置する相川を横から射竦めるように、低音域側をドカリと跨いだ。



「俺の下の名前…ああ。親父が言ったか」

「…え?」

「…俺。相川の下の名前、知らんかった。ごめんな」



譜面台の傍に片肘をつき、俺は頭を寄りかからせる。
相川との距離は今日一番に近いのに。
身体を強張らせるでも表情を硬くするでも声音に緊張を漂わせるでもない。
…ピアノが、あるから?
どんな精神安定剤なんだ、これ。



「…相澤くんが、私に関心がないことくらい。知ってる」



ほんの少し俯けた顔。
横から見た稜線はすっと細く端整で、白いガーゼや擦れた傷痕が本来の美しさを若干損ねていることを勿体なく思う。
薄くピンクに色づいた唇からこぼれ落ちた言葉の寂しさに俺は眉根を寄せた。



「…昨日。お前のピアノを聴くまでは、な。そこは否定しない」

「…だから。だったら。どうして?…つき合うなんて」



相川の瞳は俺を捕らえない。
『BECHSTEIN』と刻銘された鍵盤の上あたりをぼんやりと見つめている。
こっち向けよ、相川。
想いは口に出さなければ伝わらないのだとそんな基本的事項を改めて思い知らされる。



「…こんな方法で庇ってもらわなくても…大丈夫、しーちゃんが、いるし。
きっと、少しの間だけだろうし。
それに…」

「…それに?」

「…惨めだわ、こんなの誰も…信じない。
私が、相澤くんの、彼女だなんて」



ピアノの存在が相川の心を若干柔らかくしているとは言え。
それでも元来、人と言葉を重ね合う作業は得意ではないのだろう。
ふう、と大きなため息を吐くと、俺の言葉に応戦する構えを見せるかのようにスカートの上で組んだ拳が固く握られる。



「…お前。俺の話、ちゃんと聴いてる?」



コクリと頷く相川。
バカ。じゃあ、気づけよ。



「俺、今はもう、お前に関心あるんだけど」

「…でも、それは」

「ごちゃごちゃうるせーな。奏成、って呼んでみろ」

「ええっ?!む、無理無理無理そんなのっ!相澤くん、おかしいよっ!」



ああ、やっとこっち向いた。
相川の白い顔は瞬時に真っ赤に染まり、身振り手振りにワタワタと効果音がつきそうな勢いで否、と表現する。
…おもしれー。
ああ、いや違うか。面白くない。



「なんでだよ、彼氏 呼び捨てにすんのなんて基本中の基本だろ」

「やっ、だから!その前提がおかしっ…余計に私、苛められるからっ!」

「大丈夫だ、って。俺が片っ端からぶっ飛ばすし。
じゃあ美音、って呼んでくから」

「じゃあ、の使い方間違ってるよっ!」



頬が熱くなる一方なのか。
小さな掌で蒸気する顔を押さえる相川の仕草がちんまりと可愛い。
クリクリの薄茶色の瞳が大きく大きく見開かれ潤んでいる。
室温はそれほど高くないのに汗が滲み出そうなほど。
それは俺も大差ない。
制服の下のカットソーにはきっと、変な腋汗が滲んでんじゃ?
そんなのお前、気づいてないだろ?



「…っ、わ、わたっ、私のことっ…好きでも、ないのに…!
やめてよ…ほんとにっ…」