美音のお母さんは確か、携帯電話を持っていないと言っていた。
伊野から聞き出した勤務先は市内でも大きめの病院。
代表番号に電話をかけて、出来るだけ丁寧に呼び出しを頼む。
愛らしい保留音が左耳から右耳へ通り過ぎていく間、俺はずっと思考を彷徨わせていた。
美音の家に連れて帰るべき?
お母さんは今日、何時に帰って来るんだろう?
美音はいつ目を覚ますだろう?
起きて、ピアノの練習をしたいと思わないだろうか。
それならうちへ連れて帰った方が。
いやでもそれは…
《…し?もしもし?婦人科外来 相川です、もしもし?どちら様ですか?》
「…あ。すみません、相澤です、すみません」
…すみません、2回も言ってしまった。
いろいろイケてないな、俺。
あら、どうしたの?と問う美音のお母さんの声は、よそいきのそれから幾分馴染んできたフランクなものへと変わる。
「…お仕事中、すみません。
美音さん、の。ことでちょっと」
《…倒れたりした?もしかして》
「…はい、…しました」
母親の勘?女の勘?
いや、看護師としての見事な推察力と言うべきか。
そもそも朝から美音の顔色は悪かったのだし。
世のお父さんお母さんが仕事中に呼び出される理由、って家族に関わる何事か、である場合が多いよな。
《ごめんね、相澤くんにお手数かけて。
今、学校?》
「や、父の病院に連れて来てるんです。
栄養剤、って言うんですか?
点滴して眠っちゃって」
起こすのが可哀想なくらい。
そんな俺の形容はよほど可笑しかったのだろうか。
美音のお母さんは電話の向こうで小さく笑いを漏らすとちょっと待ってて、と再びの保留音に切り替えてしまった。
思わず口ずさみそうなくらい同じフレーズが脳内を駆け巡る。
憑りつかれたくなくて、真っ白な壁へ据え置いていた視線を部屋の中へ戻すと、翔太に伊野に姉貴に。
みんなしてそれは何かに満ち満ちた目で俺を見つめていた。
…何なのそれ。何その目。
颯ちゃん見守るじーちゃんばーちゃんの目と同じもの湛えてんぞ。
《…相澤くん?ごめんね、お待たせして》
「いえ、大丈夫、です」
好きな相手のお母さん、って。
勿論、自分のお母さんじゃない。
だからって“お義母さん”でもない今、距離感が掴めなくてどうしてもぎこちなくなる自分がもどかしい。
近づけたい関係性、けれど引いておかなければ、と自制する線。
今さらネコなんざかぶりたくもないし。
せめぎ合う何かを誤魔化すように咳払い。
…翔太達が目にしてるこんな俺は。
また新しい、んだろうか。
生まれ落ちたばかりの仔鹿が何とか立ち上がろうとするあのいじらしさに似た温もりでも提供できてるんだろうか。
《あと少しで申し送りの時間なの、帰れるのよね。
可哀想…だと思うんだけど。
美音、タクシーに乗せて家に帰してくれない?
そちらで待たせていただくのは申し訳ないし、タクシー代くらい持ってるはずよ。
相澤くんは、学校に戻って》
「…や、それは…。
俺、もこう…何と言うか落ち着かなくて」
俺が、家まで、連れて帰ってもいいでしょうか。
丁寧に請うたつもりの許しはとても強張って硬かったけれど、また漏れ聞こえたお母さんの小さな笑いにほんわり溶け散った。
