クラシック

「…美音…」



相当、なんだろうな。
当日を迎えるまでのこの間、美音が抱えてきたもの。
楽観的なイメージばかりじゃないはずだ。
無意識に利き手が動く。
包帯でグルグル巻きにされた中指が美音の柔らかな頬を掠めないように、俺はそっと眦の雫を拭った。



目の前にそびえたつ壁は押し潰されそうに高いけど、上った時には本当に気持ち良いのか?
他の出場者と比べることは出来ないけど、重ねた努力は本当に美音を裏切らないのか?



「…ごめんな、美音」



分かんねえよ、俺には。
俺はてっぺんのその向こうの景色なんて見たことがないんだ。
俺の知らない未知の世界へ明日、美音は一人 足を踏み入れるのかもしれない。
認めたくない怖さが背筋をゾクリと駆け上がる。



行かないで、って。
美音、傍にいて、って。
求め縋りたいのは俺の方なのに。
なのにお前からそうしてくれんのな。
俺のこと、立ててくれてんの?
良い女だな、美音。大和撫子って言うの?



寝不足なんだから、寝かせておくべきか。
それでも多分、俺は美音の苦々しい表情をもう目にしたくなくて、意図を含んだままふわふわの髪を撫でていた。
数瞬ののち、ほんのり濡れた睫毛が震えてゆっくりと形を現す大きな黒目にチカチカと光が煌めいていく。
雛鳥に刷り込むように、俺は美音の視界を俺で埋め尽くした。



「…奏成くん…」

「…よう」



何かもちっと気の利いた言葉あんだろ俺、って。
俺を小馬鹿にする悪魔的な俺と。
いやいや本当に胸がいっぱいな時って言葉が声にならないものさ、って。
俺を擁護する天使的な俺と。
エンジェル奏成に軍配を上げたいわ。
この、美音の瞳。
俺だけしか映ってねえんだぞ。
何も言えねえ、って使い方合ってる?金メダリスト。



「…あ。ごめんなさい…」

「いや、全然問題ねんだけど。
むしろ一生 握ってろという」



俺はちゃんと笑えてるんだろうか。
ネクタイから手を離し所在なげに髪の毛を弄る美音の笑顔はいつもよりずっと弱々しい。
勿論 体調の悪さも原因なんだろうけど明日の大舞台を前に消え入りそうで。
明日、頑張って頑張りすぎて15分完奏したら実体が霞んで見えなくなっちまうとか。



…ないよな。あり得ねえ。
と思ってはいても何だろう、この得も言われぬ不安。



「…奏成くん?」

「美音っ!大丈夫?!」

「…っ、くぉんの伊野っ!
テメーはもちっと空気読めっ!
今 2人の世界だったろーがっ!」

「だーかーらーよっ!
馬鹿じゃないの相澤、美音のこと心配してんのはこの世にアンタだけじゃないのよ!」



伊野さん大正解ー、と口を揃える翔太と和をジト目で睨むも効果なし。
ワラワラとみんなして仕切りカーテンの内側へ入って来やがって。



…分かってるさ、それくらい。
いやむしろ俺は“みんな美音のこと心配してくれてありがとう”くらいの大きく寛容な心と態度でだな…



「鬱陶しいわ、そこで物思いに耽んないでよ相澤。
美音、連れて帰るの?どうすんの?」

「…趣のない女はモテねーぞ、伊野」

「何それ食べれんの?」