クラシック

美音が遠くに行っちまったらどうしよう、なんて。
優勝、がリアルに近づいてくればくるほど、心の底から応援したいのにそれと比例して何とも言いようのない感情も蠢いてくる。



練習に没頭している美音の姿を一番近くで見てるんだ。
専門家じゃないし、身近にあったのはせいぜい姉貴のピアノの音。
比べようがねえな、と思って最近じゃ親父のクラシックCDを借りて聴いたりしてるけど、やっぱり美音が生み出す情景までも抜群だと思う。



…そこには多分に、贔屓だとか。
あるからだろうけどさ。
どんだけ“天才ピアニスト”と括られてもブーニンやらキーシンやらに恋愛感情は抱けねえし。



ガキだから。
ザワつく胸の内をまずは鎮めて一歩動き出そう、なんて即達観できなくてジタジタアワアワしてしまう。
ちっせえジェラシーから美音にキスしやがった陽人を、今の俺は小馬鹿になんて出来やしない。



「…アンタもさあ、相澤」

「…んだよ」

「今の方がいいわ。
イケ好かないガム小僧のどこが良いんだか美音のセンス疑ってたんだよね。
手は綺麗でも腹ん中真っ黒だし。
いっつも貼りついた笑顔が嘘くさいし。
17やそこらで重いネコかぶっても飄々としてるとか行き着く先なんて知れてんじゃん」

「…泣いていいか、俺」



嬉し泣きでしょ、と。
伊野は言いやがった。
何でだよ、今の話のどこに嬉しいポイントあったよ。
俺はいたぶられて喜ぶ趣味は生憎持っちゃいないんだよ。



「あたしと友達になりたがってたじゃない、アンタ」

「…お前と友情育むの、大変だな」



佐野先生が教室の扉を開け入ってくる。
教壇へ上る姿も美音の瞳には映らないらしい。
背中へも、左腕にも。
指でつつかれた衝撃を受け、やっと美音は現実世界へ戻ってくる。
肩を竦め俯く白い肌がうっすらと紅に染まる様を、伊野ともども柔らかな気持ちで見つめていた。






―――コンクール前日。



美音の顔色は冴えなかった。
迎えに来た俺と美音越しに目を合わせた美音のお母さんも、きっと同じことを考えている。



「美音、今日は休めよ学校」

「…えー…大丈夫。英語、小テストあるし」

「顔色悪い。小テストなんざ受けなくたって留年しねえよ」



そうだけど。

美音は苦笑いを浮かべそれでもやっぱり後ろ手に玄関のドアを閉めながら 行ってきます、とお母さんへ告げた。
無理に作ったような笑顔が痛々しくてキスしてえ。
…ってそんな俺の思考が一番痛々しいわ。



「…何だか、怖くて」

「俺の愛が?分か」「や、違違っ…」

「てっめ、相変わらず絶妙な即答だな?
そこはほんのり照れてうん、だろうが!」



団地内の緩い坂道を並び下りながら美音の柔らかな頬っぺたをグニグニと指で摘まんでやった。
おお、癒されるコレ。



「いいい痛っ、痛いよ!奏成くん!」

「ああ悪い。大福みたいで」

「え、和菓子 好きなんだ?」

「いや、美音が好き」



は、と吐く息は白く対照的に染め上がる美音の肌は紅く。
天然の美しさはどんな巨匠の手にかかっても、どんな最高級の絵の具でも表せないものかも。
張りつめた冬の空気が澄んでいるからか。
見慣れた日常のような気がするのに、それでも初めて目にした一枚の絵画のように鮮やかに映った。



「…あ、りが、と」

「冬眠間近のカメか」



俺のと色違いのマフラーへ首を竦め、照れた顔半分を埋める美音へ笑いが零れる。
覗き込むように見つめ 何が怖いんだよ、と。
俺は話を元に戻した。