クラシック






―――美音が、研ぎ澄まされていく。



その不思議な変貌を俺は間近で感じていた。
大晦日も除夜の鐘も正月も初日の出も初売りも。
勿論ヒメごと(年が変わっても俺は相変わらず、ってことだ)も、何ら新しく始まるはずがなく。
美音はただただ練習に没頭していた。
いやもう、没してんのは頭だけじゃなく、全身爪の先までもドップリ。



寝食を忘れる、なんて言葉があるよな。
あれを体現するヤツがいるなんてマジびっくりだ。
美音は本当に放っておいたら飲まず食わず喋らずで、うちのピアノ部屋へ籠もっている。
トイレに行ってんのかさえ怪しいんだ。
冬休みの間、俺は自分がこんなにもマメで甲斐甲斐しく誰かの世話がやける秘めたスキルを持ち合わせていたという事実に気づいた。
これ、この姿。
伊野にぜひ見てもらいたい。



朝、美音の家まで迎えに行って。
おはよう、と挨拶を交わす。
自身に課するプレッシャーゆえか、それとも。
本当は寝る間も惜しんで練習したいのにとする焦れったさゆえか。
美音はここのところ、よく眠れないらしい。



まーたウサギ目、と甘く叱っても。
ごめんなさい、と照れたように潤んだ瞳(いや、寝不足のせいだと思うけどね)で見上げられたいがための前フリだと自分でも思う。
ふわふわの髪の毛を撫でくり回して、しょうがねえな、と。
言いながら華奢な背を押し、俺の家までの15分あまり、ゆっくりとデート気分を味わう日々だった。



…まあ、ちょっと。
いや、随分と。
糖度は低めだった。
それでもお利口(自讃)に我慢出来たのは、圧倒されていたからだ。





俺は昔から、大抵のことで苦労した覚えがない。
…イヤミっぽいか、こんな言い方。
でもそれは逆に言うと、何も突出して出来るものはない、ってこと。
何でもそこそこにしか出来ないんだ。



両親の遺伝子には感謝している。
あのボサッとしてる姉貴でさえ学校の成績は常に良かったんだ。
男子に求められる人気者ポイント“スポーツ”もソツなくこなせたから、俺はたぶんどこかしら出来ない子の気持ち、がきちんと分からない欠陥人間だと思う。



血の滲むような努力なしに手に入る天性のスキルは、きっと俺を甘えさせ駄目にしてきた。
だけど。
天才、ってやつの類がこんなにも極端なんだということに息をのんだ。



ピアノ以外は何も必要ない、とでも言いたげに。
俺がズカズカとピアノ部屋へ押し入り美音の首根っこを掴んでリビングへ連れて行くまで、アイツはピタリとピアノへ同化している。
白く細い指が鍵盤に吸いついて離れないかのように。
本来小さく華奢な身体は、だけどグランドピアノの大きさに負けないほど圧倒的なオーラを放つ。



瞳は遠くどこかを見つめ、唇は常にブツブツと何事かを呟く。
まったくもって変態チックだ、美音。
こんな可愛いのに残念な子だ。
まあ、俺だけしか知らないからいいけどさ。



珍妙な優越感で満たされる独占欲は、美音の手を引く俺の口元を柔らかく綻ばせる。



…怖っ、て。
こんな俺の姿を見たヤツは、またそう言うんだろうけどさ。