その日彼は胸にポケットのある薄い青のサマーニットを着ていた。見慣れた黒いリュックに、紺のツイード地のモカシン。腕時計はついこないだベッコウのフレームがおしゃれなNIXONをプレゼントしたけど、違うのをつけてる。
靴も時計もあげたことがあるけれど、
別れた彼女にプレゼントされたものは身につけてこないあたりが、いかにも彼らしい細やかさだ。
新宿三丁目で待ち合わせて、出口からすぐのインドカレー屋で待ち合わせた。彼の影響で私もすっかり好物になってしまったカレー。
二ヶ月ぶりに会う約束をこじつけるには、おしゃれすぎないインドカレーがぴったりだった。

地下に下る階段を降り店に入ると、わたしはいつものように奥の席に座る。あぁ、目の前に、ずっと会いたいと思っていた人がいる。久しぶりに、ドキドキが止まらなかった。
顔を見れない代わりにメニューを一緒に見て、彼も私も2種類のカレーをチョイスできるセットを注文した。

メニューがなくなったら、とうとう顔を見なきゃいけない。彼はまっすぐに、そしてちょっと困ったように私の顔を見ていた。
「……ひさしぶり。」
そんな馬鹿みたいな言葉しか出てこない。
わたしはいったい、何をしに来たのだろう。

カレーが来たところで、胸の鼓動は止まらなくて、とうとう胸もいっぱいになってそれはお腹まで到達した。食べても食べても減らないカレー。というか、飲み込むのすら精一杯だ。
なかなか手が進まないでいたら、「食べないの?」といって彼が私の皿に手を伸ばしてきた。私が食べきれない分を彼が食べる。デートの時はだいたいそうだった。

結局私は半分も食べれなかったのではないだろうか。胸もお腹もいっぱいのまま、割り勘でお会計をして、階段を上がる。
私が先に歩いてたら、ポンポンとお尻を触ってきた。「相変わらず、おっきいね」私はこんなに緊張してるのに、彼はなにひとつ変わっていない。

言いたかったはずのことをなにも伝えられず、インドカレーの時間は終わってしまった。まだ20時すぎ。帰るには早い。どーしよう。別れた彼氏とのデートプランなんて、私の辞書には載ってない。
「世界堂行ってもいい?」
製図用の太いシャーペンが必要だっていうから買い物に付き合った。あれこれいいながら売り場を見ていると、2ヶ月で空いた距離を縮めるのにそう時間はかからなかった。
無事買い物を済ませ、世界堂を出ると夜風が気持ちいい。

「このあとどうする?休憩する?」
なかば予想していた展開。
いつもと同じ、お決まりのコース。
ただ違うことは、私と彼はもうカップルではない。

いけないことだとわかっていながら、断る術もなければ理由もない。もう失うものなんて特にないと思えたし、私のこと生理的に無理になったわけじゃないんだって安心までした。
新宿三丁目のネオン街に向かって、彼の足はずんずん進んだ。なんでこの人はいつもこう、迷いなく前に進めるのだろう。
着いたのは女子にも人気なムードのいいホテルで、私の胸もご多分に漏れず高鳴った。
「休憩で。」
相変わらずスマートな彼に受付を任せて、わたしはロビーをふらふら見渡した。

エレベーターに乗って、部屋へ。
あーあ。来てしまった。今更後悔したって遅い。
さも本当に休憩しにきたかのように、ふー疲れたねぇとか言ってベッドに座る。リモコンをピコピコ操作して、お笑いのチャンネルをつけた。
「あ、前もこれ見たよね。」
自分で言っておきながら過去の話にチクッとくる。見たことない「ゆってぃ」のチャンネルにしょうがなく変えた。
ばからしすぎるネタだけど笑うことしかできない。
彼は私の後ろにまたぐように座って、ぐっと後ろに引き寄せてきた。寄りかかるしかない私。やっぱり胸はドキドキしていた。
「お腹、タプタプだね子供いるの」
「そうだよ。かわいいでしょ」
寝っ転がってゴロゴロしながら、でもなんか怖くて背中を向けて寝てみる。
後ろから抱きつかれ、力ずくで彼の方へ振り向かされる。
もう、至近距離にある顔。彼は昔のように、そっとくちづけてきた。

なんだか泣きそうだった。
ずっとこうしたかったのに、もう叶わないと思ったのに、それがいま、叶っている。
戻れなくてもいいや。今日で満足しちゃうかもしれない。よくわからないけどそんな気持ちだった。
彼の薄い青のニットを脱がし、ベルトに手をかけると、私があげた白いベルトをつけていた。なんだ、使ってんじゃん。

湯船に一緒に浸かって、精一杯彼の足をマッサージした。私はいまでもあなたに尽くしてるわよ、と親指に力込めてグイグイ押した。

用が済むと眠くなる。男はそういうもんだって彼はよく言ってた。わたしの横でスースー眠る彼の胸を枕にして、私も目を閉じた。あったかい胸。彼のにおい。わたしは一年半これを幸せのご飯にして生きてきた。

「やばい、そろそろ出ないと」
鎌倉に戻る終電は早い。丁寧にベッドの端に寄せられた服を着て、ホテルをあとにする。
黒目を強調するためのコンタクトはパサパサに乾いて、街のネオンがぼやけて見える。綺麗だな。足元がよく見えないので彼の腕を拝借する。
駅までの道はうつむきながら、話すことはもうなかった。

わたしはいったい、なにをしているのだろう。振られた男にホテルに連れてかれる女って絶対友達に怒られるやつだ。

地下鉄とJRの分かれ道
「じゃ」と普通に別れようとする彼。
なんなのよ、と思ったらやっと言葉が出てきた。
「言いたいことは山ほどあるのに、何も言えなかった。」
「言いたいことって、なに。」
「ひとことでいうと、ふざけんなって感じかな。」

彼の顔がまた困る。
わたしはこんな顔を見たかったわけじゃない。
「……また電話する」
困った顔のまま、時間を気にした彼はそう言って地下鉄の方へ行く階段をくだった。
わたしも終電に間に合わなくなりそうになり走ってホームに向った。