私は病気

しかし、中国に中学一年終了までいたので、成績も悪くなく、「三好学生」(徳育、知育、体育の優れた学生)や学級委員長などもやったいわゆる模範学生だったので、基礎は良かった。でもそれだけでは仕事はできないとわかっていたので、五反田にある対中国商社に転職してから、余暇を利用して、中国語スクールに通った。
最初は、ガイド通訳試験を受けようと、目白にあるスクールに通った。
会社では、人民日報を翻訳したり、経理総務までやだった。私は、通訳を目指したので、翻訳では満足できなかった。海外出張したり、第一線でバリバリ活躍したかった。
しかし、ガイド通訳は一次試験に受かっても、二次試験で何度も落ちた。私は、地理と歴史がめちゃめちゃ弱かったのだ。いわゆる試験のための勉強しかしてこなかったのである。やはり普通の日本人にはかなわなかった。試験が終わると忘れるタイプだった。
この時は、東京に近く、家賃の安いところに引っ越したのである。私の給料は月13万しかなかったので、風呂なし、共同トイレの6畳ひとまの古いアパートだった。近くに銭湯があったので、苦にはならなかった。横浜で月3万円の家賃は助かった。都会の独り暮らしはやはり寂しく、年に三、四回は新幹線で盛岡に帰っていた。寂しくて堪らなかったので、帰省しないと発狂しそうになっていた。親の顔を見て、友達にあって、入院中の父を短期帰宅させて、父のお小遣いを4万円程預けては、また横浜へ戻った。
自分の遊びのお小遣いは全くなく、遊びも知らなかった。いわゆる青春はなかった。恋愛やファッションとは全く無縁だったのである。この時更に高校時代に借りた育英会の奨学金も返していた。そんなわけで、貯金は全くできなかった。
勉強と仕事オンリーだったが、充実した日々だった。恋にも憧れていたが、そのご縁は全くなかった。中国語の力が大分ついてきたので、もっと生かせる場がほしくて、また転職した。語学スクールも横浜のに変えた。
今度の仕事は、なんとかまあまあ満足で来るところだった。中国語を使える機会も増え、世の中は中国ブームだった。中国の改革解放の真っ只中だった。日本もバブルに沸いていた。
毎日10時11時迄残業するのが当たり前だった。週末は相変わらず中国語スクールに通っていた。会社も中国の合弁会社から研修生を受け入れたり、中国や台湾にも出張したりしたので、それなりに充実し、楽しかった。若かったから疲れ知らずだった。やっと自分を発揮できるところができたので、嬉しかった。
私の青春は、相変わらず仕事と勉強一色だった。
会社のお昼休みにテレビで「天安門事件」を見たときは、大きな衝撃が走った。とう小平の力強さと決意を見た。あの巨大な国を治めるのは尋常ではできないんだと思った。
ここで働きながら、私は、更にハイレベルなサイマル・アカデミーの中国語通訳者養成コースに入った。一流を目指して。ここでの勉強は順調だった。憧れの先生方に教えられ、すくすくと伸びた。
でも、ここの学生はみんな一流揃い。東京外国語大学出身者、中国や台湾からの留学生、一流企業の方ばかりだった。私は、またコンプレックスを覚えた。日本はやっぱり学歴社会なんだと強く思い知らされた。箔をつきなければ彼らの仲間入りできないと思ったので、大学進学を決めた。しかし、お金がない。どうしょうか?
そこで思い付いたのが通信制の大学だった。お金もかからず、時間も自由に使えて、フリーの仕事もできる。一石二鳥だった。一念発起して、4年間勤めた会社を退職し、世の中の流行りのフリーランサーになった。
でも、中国語を履修しても面白くなかったので、英語を学ぼうと思った。日、英、中できれば無敵だと、これからは必要になると思ったのである。
しかし、私は、また壁にぶつかった。営業ができない、うまく自分を売り込めなかった。幸いクラスメートや先生に恵まれたので、お仕事は忙しかった。
初デビューは、日中経済フォーラムの日、英、中、韓のリレー同時通訳だった。華々しいデビューである。ところが、チームの他の二人の中国の方が、経験があると言っていたのに、現場では全くできず、結局私一人で8時間ぶっ通しで全部通訳するはめになった。毎日欠かさず日経を読んでいたお陰で、無事に任務を完遂できたので、評判は良かった。
後日に英語同時通訳者の篠田顕子さまから恩師の塚本慶一先生に御報告があったらしく、塚本先生に、「名刺を渡さないなんて。。。」と、お叱りを受けた。そこで初めて名刺が必要なんだとわかった。早速作ってきた。