ない簿記や珠算と格闘しながら、真面目な私は一生懸命勉強した。成績が飛び抜けて良いとは言えなかったが、アメリカにホームステーできたチャンスがあって、行ってきた。
成績の良かったはずの英語が全く通じなくて、私は夜も眠れなくなり、頭が朦朧として、うちへ帰りたいと泣き出した。そのステー先の家族のお陰で、なんとか無事に滞在期間を終えられ、帰国できた。
帰国してから、容体が落ち着いたので、中3から落ち続けた英検の二次試験に合格もでき、スピーチ大会で全国優勝もできたので良かったが、父が完全看護の病棟に入院したままなので、私の状況は変わらなかった。就職するしかないのだ。
父から暴力を受けた母が一度もお見舞いにいかず、もっぱら私かいっていた。たまには母を説得して一緒にいっても二人とも無言のままだった。和解のようすが全くなかった。
父が入院中のお小遣いは、私の奨学金で賄った。母は全然出そうとはしなかった。父の病も理解としなかった。そんな狭間で私はひどく心を痛めた。早く自立したかった。両親に仲直りしてほしかったが、叶わぬ思いだった。私は、東京に出ればやりたいことができる、自分の夢を叶えられると思った。社会や企業についての知識が全くないまま、適当に就職先を決め、上京した。
兎に角東京に出ればなんとかなると思い、品川にある陶器の卸し商社に就職した。そこの寮に入ったが、二人一部屋に慣れなかったせいか、仕事が理想的でなかったせいか、またもや眠れない夜が続いた。果てには、毎朝の朝礼で目眩を起こし、倒れていた。
これではダメだと思い、理想の就職先を探して、半年で会社をやめた。
私の理想の仕事、夢は通訳になることだった。英語では勝負できないと思ったので、母語である中国語を生かすことを考えていた。
何故中国語?それは、私が中国生まれの「帰国子女」だったからだ。私は、中国残留孤児の両親を持った日本人である。そんな威張れる帰国子女でもなかった。むしろバカにされる方だった。幸い私は、いじめられることはなかったので、助かったが、奨学金のことも、帰国子女の入学枠のことも知らなかったので、なんの恩恵もうけられなかった。むしろマイナスばかりだった。
成績の良かったはずの英語が全く通じなくて、私は夜も眠れなくなり、頭が朦朧として、うちへ帰りたいと泣き出した。そのステー先の家族のお陰で、なんとか無事に滞在期間を終えられ、帰国できた。
帰国してから、容体が落ち着いたので、中3から落ち続けた英検の二次試験に合格もでき、スピーチ大会で全国優勝もできたので良かったが、父が完全看護の病棟に入院したままなので、私の状況は変わらなかった。就職するしかないのだ。
父から暴力を受けた母が一度もお見舞いにいかず、もっぱら私かいっていた。たまには母を説得して一緒にいっても二人とも無言のままだった。和解のようすが全くなかった。
父が入院中のお小遣いは、私の奨学金で賄った。母は全然出そうとはしなかった。父の病も理解としなかった。そんな狭間で私はひどく心を痛めた。早く自立したかった。両親に仲直りしてほしかったが、叶わぬ思いだった。私は、東京に出ればやりたいことができる、自分の夢を叶えられると思った。社会や企業についての知識が全くないまま、適当に就職先を決め、上京した。
兎に角東京に出ればなんとかなると思い、品川にある陶器の卸し商社に就職した。そこの寮に入ったが、二人一部屋に慣れなかったせいか、仕事が理想的でなかったせいか、またもや眠れない夜が続いた。果てには、毎朝の朝礼で目眩を起こし、倒れていた。
これではダメだと思い、理想の就職先を探して、半年で会社をやめた。
私の理想の仕事、夢は通訳になることだった。英語では勝負できないと思ったので、母語である中国語を生かすことを考えていた。
何故中国語?それは、私が中国生まれの「帰国子女」だったからだ。私は、中国残留孤児の両親を持った日本人である。そんな威張れる帰国子女でもなかった。むしろバカにされる方だった。幸い私は、いじめられることはなかったので、助かったが、奨学金のことも、帰国子女の入学枠のことも知らなかったので、なんの恩恵もうけられなかった。むしろマイナスばかりだった。
