私、兼田都32歳は、夕方5時からの仕事で居酒屋の引き戸を開けて、店に踏み込んだところだった。

「おはようございまーす」

 水商売ゆえ、いついかなる時であろうと最初の挨拶は「おはようございます」なのだ。

「おう、みっちゃんおはよう」

 店の大将が奥から声をかけてくれ、学生アルバイト君たちが同じように挨拶を返す。

 私は履いているミュールのかかとを鳴らして私物鞄を仕舞いに階段下のドアを開ける。

 そして、OL時代で羽振りが良かった時に躊躇なく買ったブランド物のバッグとミュールを突っ込んだ。代わりに取り出したスニーカーを履いて、髪をまとめ、エプロンをつけて、三角巾を頭に巻いた。

 彼、漆原大地32歳は、勤務している什器のレンタル販売会社からの出先機関のショッピングモールの待機場所で、階段にだらりと座って両目を閉じていた。

 むさくるしい屈強な男ばかりが目の前をうろうろするので、目を開けているのが鬱陶しくなったから、らしい。

 彼はこの後深夜まで続く仕事のことをぼんやり考えながら、階段に座り込んでいた。

 とにかく、あれはまだ風も冷たい3月の終わり、花冷えのある夜のことだった。

 この時の私達の物理的な距離は約68キロ。

 この時の私達の心の距離はおおよそ地球1周分くらい。

 知り合いではあったけど(つまり、こういう人間がこの世の中には存在していると知っている、という程度の)、友達というには遠い間柄だった。

 この時からぴったり3日後の今日、私、兼田都は彼と結婚し、漆原都となったのだった――――――――