玄関の鍵を掛けるよりも先に、ドアが開く気配がした。
どうやら待ち構えていたようだ。
「ただいま」
目が合うと、一番に口角が上がった。
そうして次に頬が緩む。
あの日のような怯えた目は、もうしない。
強張った顔で警戒もされない。
すべてを受け入れそうな表情には、思わず笑いそうになった。
「おかえり…」
「寝れなかった?」
「うん、ちょっと」
ふんわりと紅茶の匂いがした。
しばらくの間、眠れなかったのだと思った。
「嫌な夢を見るし、目が醒めるといろんなことを考えちゃう」
「……」
「だから待ってみた」
そう言って笑うので、思わず両腕を広げた。
なんの躊躇いもなく吸い込まれると、胸に頬を寄せてくる。
胸に収めるには細すぎる体を、白すぎる頬を、すべて包み込むように。
「…そう言う割には避けてなかった?」
「…」
「捕まえる隙もなかったような。…気のせいか」
「ふふ、気のせいだよ。声を掛けられるのが嫌で逃げてただけ」
「…。まぁ、そういうのを避けてるって言うんだけど」
「…だって、蒼は全部わかっちゃうから」
「……」
「今は頑張りたい…」
「うん、わかってる。口は出さない」
「…ありがとう」
「っていうか…」
頭を撫でると同時に、髪が水を含んでいることに気がついた。
「乾かした?」
「……」
「ダメ、風邪引くから」
「乾かしたよ…、でも…」
言いづらそうに口籠りながら掲げた右の腕には、今も 『苦痛』 の跡がある。
「痛む?」
「痛みは全然ない…」
必要以上に触られた手や腕の感触が拭えないと、辛そうに打ち明けたあの日の夜を思い出す。
自分の患者として向き合っていた相手に、そういった感情を抱かれていたのだと知ったら。
直接言葉を掛けられたら。
苦痛の跡は、感触を拭うために自分でやったのだと そう言っていた。
痛みを認識できない精神状態の中、力強く握りしめた爪の跡。
今はもう、消えかけているけれど。
「じゃあ、こっち来て」
靴を脱ぎ、向かう先は洗面所。
「体冷やして寝込んだら怒られるぞ」
「高島先生?」
「そう、怖いよ」
「ふふ、怖くないよ」
ドライヤーの電源を入れ、髪の流れに沿って風を当てていく。
何年も触れているものではあるが、触るたびに好きになる。
柔らかいこの髪質が、ずっと変わらない何かが。
「…ん?」
顔を上げると、鏡越しに季蛍が微笑んでいた。
首を傾げるが、「何でもない」と、また笑っていた。