(お兄ちゃん、今日はすこし遅くなるって言ってたし)
最近、作り置きばかりしていたので
久しぶりにゆっくり晩ごはんの準備でもしよう、と冷蔵庫の中身を思い出しながら
家に辿りついたときだった。
「麻友子さん」
扉の前で、そっと遠慮がちにわたしを呼ぶ声は
聞きたくて、もう聞きたくないと願っていたものだった。
一瞬で、スッと表情が硬くなるのが
自分でも嫌というほどに、わかる。
なにか言わなければと思うのに、
本当に驚いたときは声って出ないんだな…と頭の片隅で
ぼんやりと考えることしかできなかった。
コツ、と彼の靴音が響いて
一歩だけ縮まった距離に
自然と身体が一歩、後ろへとさがった。
暗がりの中、隣の家から届く灯りで
彼の表情が悲しそうな色に塗れていくのが映った。
「な、なんですか…?」
しぼりだすようにして零れた声は
緊張しているというよりも、警戒をふくんだような響きだった。
きっと、これ以上
傷つけられないための。