黒いインクのボールペンを取り出して、しばらく悩んでから左手の小指下にある手のひらの丘に、文字を書きこむ。
揺れる電車の中で、それはちょっと大変だった。
『大丈夫ですよ、間に合いました』
そう書き入れてから、私も彼と同じように窓ガラスに手の平を押し付けた。
彼は少し屈み込んでそれを読む。そして、よかったです、とばかりに胸を撫で下ろすジェスチャーをした。
あははは、面白い~。というか、可愛い、この動作。私は笑って押し付けていた手の平をガラスから離す。
すると、ガラスに文字が少しだけうつってしまっていた。
「あ、ヤダヤダ・・・」
急いで鞄からハンドタオルを出して、ガラスを拭く。だけど少しばかりうつってしまったボールペンの文字は消えない。
うわー・・・どうしよう。消えなかったら器物破損じゃない、これ?そう思ってちらりと彼を見上げたら、その車掌さんは笑っていた。
白い手袋をした右手をヒラヒラと振っている。
いいですよ、大丈夫です、そう言ってるように思えた。
また次の駅が近づいてくる。彼が真面目な顔に戻ってマイクを握る。私はその間に懸命に考えた。
いいって言われても、これはダメでしょ。ガラスに落書きをしてしまった客だよ、私。うーん、ただ拭いてダメなら・・・おお、これはどう?
『右側の扉が開きます。ご注意下さい』
彼の声が電車の中に響いている。ここは山を越えたそれなりに大きな駅だから、前の方に乗っているお客さんは結構降りる人もいるはずだ。



