歩き始めた明美の背に、声がかかる。

「なに」

 振り返った明美の言葉は冷たく、これ以上人間の言葉を話すこの珍妙な獣とは、あまり関わりたくなさそうだった。

「どこにいくの?」

 ようやく不意打ちの攻撃による痛みが治まったらしい獣は立ち上がると、4本の足をリズミカルに動かして明美の側まで歩いてきた。答えを待ち、彼女を見上げる。

「………谷の魔女のところ」

「俺も行くー!」

「いい」

 即答。

「なんだよつれないな!」

 獣がふてくされる。

「どうせお前が来たところで、役に立たないだろ?」

「そんなことないぜ! 役に立ちまくり!」

「ふーん……例えば?」

「た、例えば? えーっと、だな……」

 細かく聞かれるとは思わなかったのだろう。ピンっと立っていた大きな耳が落ち着きなく動いている。明らかに狼狽えている様子。

「あっこの自慢の毛で温めてやる! それから…俺は鼻がよく利くぞ! 谷の魔女の居場所も簡単に突き止められる!」 

「………」

 毛がどうこうはどうでもいいとして。鼻が利くのは役に立つかもしれない。

「それに一人より二人のほうが楽しいだろっ!?」

 獣のほうは、明美に自分を売ることに一生懸命だ。

「……邪魔しないでくれたら、いいけど」

「本当!? やっりい!」

 なんて嬉しそうに鼻を膨らましてる。

「でも、二人じゃない。一人と一匹だ」

 明美が鋭くそこに釘を刺す。

「むふふ」

 たった今仲間になった黒い犬が、変な笑い声をあげる。

「?」

 怪訝そうな表情を浮かべる明美の側で、それは前身だけ伏せをするように重心を低くすると武者震いでもするように体全体を振るわせた。

「え―?」

 明美が呆然とする目の前で、獣の体が一瞬光の中に包まれ、眩しさから目をつぶった明美が次に目を開けたとき、目の前にあった獣の姿は消えていた。
 その代わりに、よく知ってる人物が目の前にいてあまりの驚きに腰が抜けそうになる。

「聖ー!?」

 咄嗟にその名前が口をついて出た。

「おりょ~? 俺のこと知ってんだ!? 嬉しいな。ご存知のとおり、俺の名は聖。狼男さ! で、魅力的な君の名はなんていうんだい?」

 気取った言い方で、前髪なんてかきあげてる。
 私の名前、知らない?
 聖のそっくりさんなのか? だけど、顔も名前も同じそっくりな人間なんているだろうか?
 でも目の前にいる奴は人間じゃなくて、犬……いや、狼男だというし、私の知っている聖は人間だった気がするし、違うってことなのか……?
 あやふやな記憶がもどかしい。

「私は明美」

 余計なことはあまり気にしないことにして、先を急ぐことにした。