夜。もう寝ようとベッドに入ったその時だった。バンッと勢いよく扉が開いた。扉を開けて入ってきたのは田辺くんだった。
「…アンタ、もう寝るん?大貴様が帰ってきはったよっ!行こうや。」
田辺くんは半ば強引に私の手を引いた。そして私は強引に部屋から出た。
ねまき姿のまま大貴先生の部屋へと行かされた。
扉を開けると、スーツ姿の何時もの大貴先生が居た。ただ大貴先生は学校とは違ってネクタイを外し、首元のボタンも外して更にはアイデンティティのはずの眼鏡すら外していた。かなりリラックスしている格好。
「大貴…先生…?」
「…今は先生ではありませんが。」
先生の声がした。
「久しぶりですね、黒杜さん。」
私の名前を呼ばれた。三日ぶりの先生の声。だけどそれが凄く懐かしく感じて…最近の出来事で皆に忘れられた中、この先生は…大貴先生は私をしっかり覚えてくれていた。田辺くんや桐本直樹も覚えてくれていたけど、大貴先生に呼ばれる自分の名前はこんなに嬉しいなんて…思ったこともなかった。
ふと我に返ると泣いていたことに気がついた。
「そんな泣かれては何か気に障ることをしてしまったか不安になりますよ。…大丈夫ですか?」
大貴先生は頭をぽんぽんと撫でてくれた。これ、先生が元気出せっていうときにするやつだ…
「いえ…そんなんじゃなくて……嬉し…くて」
「黒杜さん…っ!」
バタン
部屋に大きな音が響いた。先生と田辺くんの声が混じり合いながら、私の意識は遠退いていった。
「黒杜、さん…」
「…大丈夫ですよ、大貴様。だって…寝てはるだけですから。」

翌日。目を開けると部屋のベッドの中にいた。
ベッドから体を起こすと田辺くんの姿が見えた。ベッドの隣のイスに寄りかかって眠っている。
…そういえば、昨日私…先生と会ったと思ったらそのままその場に寝ちゃってる…?
起こさないようにひっそりとベッドから抜けて、まだ体温の残る夏掛けを田辺くんの背中に掛けた。
そして洋服の部屋の方へ行き、田辺くんが昨日似合うだろうと言ってくれたワンピースの袖を通した。
着替えが終わり、扉を開ける音とともに田辺くんの目が開いた。
「ごめん。起こしちゃった?」
「いや…こっちこそごめん。寝てもうとった。…これ、ありがとうな。」
そう言うと、にっと笑った。
「にしても…そのワンピース似合っとるやん。」
「田辺くんが似合うかも、って言ってたから…」
すると、田辺くんの口元が緩んでいくのが解った。でも、田辺くんは笑っただけで何も言わなかった。そして立ち上がり、ドアへ向かった。
「ありがとうな。…また朝食できたら呼ぶわ。」
そうして、田辺くんは部屋を出て行こうとした。それと入れ替わりになるように、何時ものスーツ姿で眼鏡をした大貴先生が顔を見せた。
田辺くんは、先生に一礼をして部屋を出て行った。
「お、お早うございます。大貴先生。」
「ははっ。硬いってば黒杜さん。…家族、なんだしさ、リラックスリラックス。」
「……先生も『黒杜さん』って言ってます…硬いです。」
「確かに。…ごめんね。改めてこうしてみると自分でもどう接すればいいのか解らなくて…娘のはずなのに。」
そっか。先生でも戸惑いはあるんだ。…そりゃ金曜日までは生徒だったからな…
「私のことは前と何も変えなくて大丈夫です。…私も、大貴先生を見ていると大貴先生って口が動きます。お父さんのはずなのに、です。」
「…そうですね。…では僕は仕事がありますので。」
「はい。…いってらっしゃい、お父さん。」
笑顔で言うと、少し驚いたような顔をしてから「…いってきます、玲実。」と言って、出て行った。そして、私はベッドに腰をかけた。
先生、変わらないな。幾らなんでも担任と生徒がいきなり親子、なんて大変だろうし。…でも、私を『黒杜さん』じゃなくて『玲実』と言った。
このままの先生でいてください。
祈った。世界がいきなり変わってしまった。先生だって、先生では無くなってしまった。変わらないでいろとは言えない。でも少しだけでも良いから…少しくらい、変わらず側にいてほしい。
「おぉい…そんな思い詰めんでも大丈夫やで。」
気が付くと、田辺くんの姿があった。気付かないうちに下を向いていたらしい。
「ご飯出来たよ。いっぱい食べよな。」
思い切り笑顔を見せる田辺くんに、私は出来る限りの笑顔で頷いた。