なのに。
「じゃあ、おやすみ。気をつけて」
なんで、言わないの! 言ってよ、私!
「あの、あの、」
「そうだ、忘れてた」
ブルガリの黒の財布から、今日は万札を置きながら、さも今、思い出したように言う。
「明日はちょっと仕事があって神戸に行くから、会社は胡蝶だけで開けて貰っていい? 連絡も取りにくいかも」
「わかりました。……おやすみなさい」
私が、『誰と?』『どんな仕事?』『神戸の何処?』の言う言葉を全て飲み込んで笑う。
「おやすみ」
タクシーを待たせたままだというのに、彼は私に触れるか触れないかの口づけを落とすと、降りた。
香水の匂いが鼻を掠めて――堪らなく切なくなる。
どう誘おうか、なんて馬鹿みたいな私の幼稚な考えは、明日、社長と逢瀬するんだろう彼の前ではきっと邪魔でしかない。
私との関係は――二人の関係を隠すための隠れ蓑?
だったら、別にあげなくてもいいかもしれないと自虐的に笑う。
私の迷惑でしかない処女なんて、彼には必要なんてない。
ただ、私は、今のこの日常がキープできればそれで満足なんだ。
貴方が触れた唇は愛しいけれど、私には、擬態しかできない。



