「ん。仕方ないな」
さっさと帰ればいいのに、私もこの肩に留まったような弱々しい生き物に情が湧いてしまった。
泣きだしそうな、崩れそうな顔で私の腕を掴んだこの蝶矢に、一時間で私をどうこうする度胸は無い。
車までのんびり歩き出すと、落ちて来そうな大きな月で思わず両手を上げてしまった。
酔っていないのに、空気の酔って、馬鹿みたいな夜。
直臣さんよりも、店長よりも、簡単なこの男の隣で、笑ってあげるのは違うと思った。
「この前の時の俺様オーナーより、今の泣き崩れそうな蝶矢の方がいいね」
シートベルトを締めて、エンジンをかけてやや緊張してハンドルを握る蝶矢に言う。
「俺様オーナー?」
「仕事を盾に私に下着姿になれって脅したあの時の蝶矢よ」
「……止めて。夜中に思い出すと叫びだしたくなるんだ」
「ふーん。何で?」
「紳士的じゃなかったろ」
眼鏡の下の瞳が後悔に染まる。
簡単な男だと思うのは、私の回りが曲者だらけだからか。
「お腹空いてない? あのハンバーガー、でいい?」
「口説きたい女にファーストフードなんて上等じゃない」
「一時間だから時間が惜しいし、――それに胡蝶も嬉しいだろ?」
「……嬉しくないよ」
物凄く甘やかされて、物凄く我儘を言いたくなった。
物凄く、ちっぽけな私たちの会話の中で。



