それはおそらく千鶴の彼の名前だった。
そのことを忘れていたわけではなかった。
でも、この時の僕はうかれていた。
「そんな彼とはもう別れなよ。」そう言いたかった。
でも、その後の彼女の表情を見ると言えなかった。
千鶴の目から滲み出た涙が、強い潮風に乗って車の後ろに流れていったのを僕は見た。
おそらくそれは、千鶴がまだ彼のことが好きだから流れた涙なのだろう。
彼女はしばらく窓から顔を出したままピクリとも動かなかった。
たぶん、僕に涙を見られたくなかったのだろう。
僕は自分の思いをそっと胸の奥に仕舞った。
そんな彼女を僕のせいで苦しめたくなかった。
悲しいけど僕はせめて、千鶴の「いい友達」でありたかった。
気付いたら、僕の右足が強くアクセルを踏み込んでいた。
車が風を切る音がさらに大きくなった。
『もう……いいの?』
僕は彼女の背中に声を掛けた。
「気持ちいい~!!なんかスッキリするね!!」
振り向いた彼女は笑顔でそう言った。
さっき流した涙が嘘のような笑顔だった。
でも、まだ少し赤く滲んでいた瞳までは隠せないようだった。
『ナオキって?彼の名前?』
「うん。ごめんね!なんか……思いっきり叫んじゃって」
『ううん、いいよ!少しは気分晴れた?』
僕は出来る限りの笑顔を作った。
「うん……ありがと!!智が……」
『俺が?』
「智が……友達になってくれてよかった」
『そう?』
「うん……言い過ぎかな?」
『うん、言い過ぎだよ』
僕たちは目を合わせた。
お互い照れ笑いだった。
だけど、言い過ぎでも大袈裟でもなかった。
僕は千鶴と出会えて本当によかったと思っていた。

