僕がテーブルから少し離れたトイレの入り口に入ろうとした時、彼女(背が高くてスタイルのいい年上の方)がさり気なく声を掛けてきた。


「あの子に名前聞いたんだって?」


『う、うん。でも教えてくれなかった』


「私には聞いてくれないのに?」


彼女は意地悪そうに言って笑った。


『え?そ、そうでしたっけ?』

「そうよ、ほんと失礼な人ね」

『ごめん、で、な、名前は……な、なんて言うの?』


僕はあらたまって真剣に聞いた。


すると彼女は「あはははは」と声を出して笑った。

冗談よ?みたいな笑い方だった。


『そんな笑わないで下さいよ……聞かなくても顔見知りになってたからですって』


「ほんとに?」


『ほんとですって!!』


「名前は天野……天野千鶴(あまのちづる)だよ♪」


そう言って彼女は微笑んだ。


『あ、天野さんっていうんだ。じゃ、今度からはちゃんと名前で呼びますよ』


僕が真剣に言うと、彼女は笑いを堪えながら言った。


「私じゃないよ?」


『え?』


「……あの新しいバイトの子の名前」


そう言ってクスクス笑いながら彼女はレジの方へ歩いて行った。




『あの子、天野千鶴っていうんだ。……ってゆうか、あの人どうして自分の名前じゃなくて、あの子の名前を教えてくれたんだろ……』






そんな彼女に好意を抱いたのは事実だった。

でも、確かに分かっていたことは、それは恋ではなかったという事実だ。




僕の本当の恋は、この時すでに僕の気付かないところで始まっていた。


だけど、そのことに僕自身が気付くのは、もっと先のことだった。