『だから、今日は千鶴の家に帰れないんだけど……』


僕の言葉を遮るように彼女は言った。


「大丈夫だよ。大丈夫……」


『そう?』


「うん……」


『何かあったらベル鳴らしてくれたら……』


「うん、わかった。ありがとうね、智……――」


千鶴が僕の名前を言った後の言葉を、僕は聞き取ることが出来なかった。

それを聞き返す間もなく、彼女は車から降りてドアを閉めた。

そして彼女は振り返り、僕に笑顔を見せて小さく手を振った。

僕は笑顔で返して、それからゆっくりと車を走らせた。

バックミラーに映る彼女は、その姿が見えなくなるまで僕に手を振っていた。




僕は去年の夏、あの初めてオールした日の朝のことを思い出していた。

あの時の彼女は、一度も振り返ることなく歩いていた。

そして、僕はそんな彼女の後姿を見送ることしか出来なかった。


でも、今は違う。

僕たちはお互いに、その姿を見送ることが出来る。

二人の道はまだ始まったばかりで、当然、この先にはまだまだ続きがある。


この時の僕は、バックミラーに映る彼女の姿を見ながらそう思っていた。