しばらくして千鶴は静かに言った。


「今日のことは二人だけの秘密ね」


少し遅れて僕はうんと頷いた。


それからお互い黙ったままの時間が過ぎた。

それは僅かな時間だった。

でも、僕には長く意味のある時間のように思えた。


やがて千鶴は黙ったままドアノブに手を掛けた。

ガチャというドアの開く音がした。


「じゃ、行くね。」


『うん、また……』


言いたいことはたくさんあった。

でも僕は、何一つ声に出すことが出来なかった。


彼女の背中を見た。

彼女が車のドアを閉めた。


「仕事がんばってね、今日はありがとう」


千鶴が車の外から窓越しにそう言ってほほ笑んだ。


何も出来なかった。

何も言えなかった。

僕はただ右手を上げて彼女に微笑み返した。


次の瞬間、バックミラーに彼女の後姿が見えた。

僕は千鶴の歩く後ろ姿をルームミラーで見ながらクラッチを踏みこみ、ギアをローに入れた。

そしてゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

車は彼女と反対の方向に動き出した。

僕は少しづつ小さくなっていく千鶴の後姿を見ながら車を前に動かした。

やがて彼女の後ろ姿はルームミラーから消えた。

僕は何か一つ取り返しのつかない様なことをしてしまったような気持ちになった。