穂乃香が出場する地区大会本選前夜。


俺は久しぶりに、
母と一緒に同じステージに立って演奏した。


一緒に演奏した曲は、
母にとって、思い出深い曲。


モーツァルト。
2台のピアノ・ソナタ。

ニ長調 第一楽章。



母の大切なものをいれるその引き出しに、
ずっと大切に片付けられているのは、
神楽小母さんと一緒に演奏した記録を残したCD。


そして……メイク・ア・ウィッシュと言う団体を通して出逢った
一人の少女・満永理佳【みつなが りか】ちゃんと共に演奏した曲。




その時間中で感じたのは、
俺自身の演奏スキルはまだまだ発展途上だと言うこと。


そしてそれを脱却して、新しい一歩を踏み出すには
幼い頃にきいた、真人の音色が不可欠なようにも思えた。


母の演奏が、神楽小母さんの音色と呼びあって
大きく翼を広げたように。


翌朝、俺たちは伊集院邸で朝食を終えて
穂乃香のコンクール会場へと出かけた。

会場に入ると、母と紫音先生は
関係者として別の部屋へと出かけていく。


俺はと言うと、穂乃香の付き添い宜しく
母の口利きで手に入れたパスを見せて楽屋へと向かった。


サーモンピンクの衣装に身を包んだ穂乃香は、
とても可愛らしくて、思わず抱きしめてしまいたくなる衝動にかられながら
俺はグッと拳を握りしめて自制する。


穂乃香は本番を待つまでの間も、
彼氏を探しているのか、キョロキョロと周囲を見渡していた。


本番が始まって、一人ずつ予選通過者の演奏が聴こえてくるものの
俺の耳を刺激する、ライバル候補の音色は存在しない。




フルフルと緊張に体を震わせる穂乃香。


そんな穂乃香の視線の先には、一人の少年。



その少年を顔を見て俺は昨日、
会場入りする際に感じたその視線の主だったのだと実感する。


「行かないの?
 アイツ、穂乃香の彼氏でしょ?」



そう言って、穂乃香に声をかけるものの、
アイツは首をふるふると横に振って、力なく答えた。


「行けないの。
 瞳矢を邪魔したくないから」



やがて半分以上の人数が演奏して、折り返し始めた頃、
会場スタッフがステージそでの方へと後半出場メンバーを誘導し始めた。



「穂乃香、いよいよだね。
 健闘を祈ってる。

 俺は少し出掛けるよ。
 気になることがあるからさ」


楽屋の前で穂乃香と離れて、
俺はパスを使って会場内を散策する。



俺が探しているのは真人の存在。





本来なら真人は、
今日のこの大会に出ていてもおかしくない。



あの震災の一件がなければ、
確実にH市の方で出場していたはずだから。




会場内を一通り、真人を探しながら彷徨っているものの見つけられず
俺は客席側から、会場の中へと入った。


ステージには、穂乃香の彼氏である瞳矢と呼ばれていた少年が
演奏とは言えぬ音を無機質にならしていた。



ざわつく会場内。


そんなピアノの音色が止まって、
瞳矢はピアノの傍から立ち上がって、ステージの前へと歩いてくる。



もう演奏をやめるかと思われた彼は、
再びお辞儀をすると、ピアノの方へと向かった。


その時、逆サイドの客席が慌ただしくなる。



客席の後方からステージに向かって駆け出す少年と、
追いかける警備員。



俺も二人を追いかけるように駆け出すと、
ステージに駆け上がる間際、警備員に抑えられたその少年が
真人だと言うことに気が付いた。



すぐに二人の傍に居て、
関係者パスを見せて警備員から真人を引き離す。


真人は僅かな隙をついて、ステージに上ると
真っ直ぐに瞳矢が演奏している椅子の隣へと座った。


単音だった音が、真人が演奏を始めることによって
一気に重厚感と膨らみが広がっていく。