……瞳矢……。





僕は顔をあげてステージの方を見上げた。
確かにステージに立っているのは瞳矢。


タキシードを着て、演奏しているのは瞳矢。
だけどいつもの瞳矢じゃない。





どうしたの?





たどたどしい単発の音色で届けられる 。



ショパンの練習曲集Op.10「黒鍵」。




それはメロディーになっていない。



瞳矢が奏でるのは、幼い子供が音符を辿りながら一音一音
鍵盤を押すように奏でられる演奏。



ステージに出るのには力量が乏しすぎる
演奏をする瞳矢に観客たちからの野次とブーイングが集まる。



そんな声を聴いてしまったのか、
瞳矢は、黒鍵を弾く手をピタリと止めてしまった。



ピアノの音色が消えてしまった会場内。
ざわつき始める会場。





瞳矢は一度立ち上がり観客に深々とお辞儀をすると、
もう一度座りなおして次の曲を弾く。


それは昨日、瞳矢の家で奏でられていた
メロディー。



そしてそのメロディーのメインフレーズになっているのは、
遠い昔、僕が瞳矢と一緒に、母さんのグランドピアノで一緒に作曲していた
懐かしいメロディー。


そのメロディーをベースに、瞳矢はソナタ形式に
オリジナル曲を作り上げているみたいだった。


相変わらず、瞳矢が奏でるその音色は
たどたどしくて、メロディーと言えるものにはなっていなかった。

そんな寂しい単音が、
虚しく会場内に響き渡っていた。




そんな瞳矢を見ていると、
僕は溜まらなくなって、彼が一人で立っている
ステージへと駆け出した。




今日で最期だから。

最期にもう一度だけ、
瞳矢とピアノを奏でたい。





その一心でステージへと会場内の警備スタッフを押し切って……、
辿り着くと、瞳矢が腰掛けるピアノの椅子に、半分だけ腰掛けて
瞳矢の動きが悪い硬直した指先を両手で優しく包み込む。


瞳矢の顔が僕を見つめる。


僕はただアイコンタクトを交わして、
ゆっくりと瞳矢に笑いかけた。


僕の笑みを受けて、瞳矢はもう一度僕に微笑んで
たどたどしく、鍵盤を指先で追いかける。

そんな瞳矢の演奏をフォローするように、
僕は脳内に響き渡って行くメロディーを両手の指先で会場内に響き渡らせた。



部外者である僕が演奏していることに、
ざわつく観客たち。


戸惑いながらも演奏を中止させようと近づいてくる
運営サイドのスタッフ。


だけどそんな係りの人たちを
制する存在が微かに見えた。




次に瞳矢が紡ぎたい音色は僕の脳裏には広がっている。

瞳矢が奏で、僕が追いかけながら
一台のピアノで奏で続ける物語。