「あらっ、穂乃香さん。
私は飛鳥浩樹と、アナタだと思っています。
それに檜野瞳矢はうちの教室とは関係ありませんよ。
一週間前、正式に保護者の方と共に教室をやめると挨拶に来ました。
自らのレッスン態度を謝罪していました。
彼には、ピアノと向き合う覚悟が足りませんね。
地区大会本選は参加するのですかと尋ねたところ、
『参加します』と言ってましたが、今の彼では何処の教室も相手にしません。
音楽教室の後ろ盾もなく学校の後ろ盾もなく、
彼の実力だけで、本選に行けるほど現実は優しいものではありませんよ。
さっ、教室をやめた彼のことはこれ以上は不愉快です。
穂乃香さんは、第一レッスン室でレッスンを始めましょう」
そのまま私に背を向けて、一人第一レッスン室の方に長いスカートの裾を揺らしながら
歩き出す先生。
だけど私は動けないでいた。
心の中は、黒いものでいっぱいになってる。
こんな状態でピアノには触れないし、
こんな人を師として仰ぐなんて恥ずかしい。
そんなふうにすら感じている。
「穂乃香さん」
私の名を呼んで迎えに来て、指し伸ばされた手。
その手を拒絶するように、私は弾くとまっすぐに
泣きそうな瞳を耐えながら見つめる。
「この場を持ちまして、私もこの教室をやめさせていただきます。
今日までお世話になりました」
それだけ絞り出すように告げて礼儀として頭を下げると、
荷物を持って私は長年通い続けたピアノ教室を後にした。
瞳矢がもういない、
この教室に私が通い続ける理由は何処にもない。
ここの先生に未練はないのだから。
ピアノ教室を去る日。
それは私にとっての、
新しい時間の始まりだった。