「瞳矢、今何やってた?」

「何って、ピアノの練習。
 コンクール、三日後だよ」

「うん……。知ってる。後、三日だね。
 黒鍵は順調?」

「練習はしてるけど、粒が揃わなくてぎこちないかな」

「あっ、それ私もだ。
 バッハは?」

「シンフォニアも納得出来る演奏は出来ないな」

「そっかぁー。
 私、今からまたピアノのレッスンだよ。

 元気なら、瞳矢も今から顔出してきたらいいのに。
 教室に」



穂乃香が何気なく呟いた教室。


だけどあの場所に、
ボクの居場所はもうない。


「ごめん。穂乃香、練習に戻らなきゃ。
 じゃー、三日後」

「うん。
 コンクール、パパが来てくれるの。

 ちゃんと瞳矢に紹介するから。
 指、ちゃんと診て貰ってね」


そう言い残して、穂乃香との電話は途切れた。



穂乃香の電話と入れ替わって姿を見せたのは、
義兄さん。


「ただいま。
 瞳矢、練習は順調かな?」

「お帰り、義兄さん。

 今日も真人の家だったんだよね。
 真人、どうしてた?」


学校で別れたばかりの、
真人をおもいながら問いかける。


「大丈夫だよ。
 真人君の事は心配しなくていいから」

「真人のこと頼んだよ」

「はい、頼まれました。
 じゃあ、今日の日課始めようか」



言われるままに、ボクはピアノの椅子に座ったまま
両方の手を、義兄さんの方に差し出す。

片手ずつ、義兄さんは両手で掴みとると
ボクの掌に、義兄さんの指を絡めながら
ツボを刺激するようにマッサージを続けていく。


「瞳矢、指はどんな感じ?」

「今日感じたのは、指が伸びないなーって。

 ずっと痺れた感じは強かったんだけど、
 最近は親指と人差し指の筋肉が落ちてるかなって
 感じる。

 だから……演奏も、思うようにままならないって言うレベルじゃなくて
 スムーズな演奏事態が厳しくなってる」

「だったら瞳矢の指が、スムーズにコンクールの日に動くように
 念入りにマッサージをしてお祈りしないとね」


そう言いながらも、時間をかけて義兄さんは筋肉の動きを確認するように
ゆっくりとマッサージを続けてくれた。


「次の診察は、天李先生から病気についての話があるんだよね。
 一緒に行きたかったけど、仕事が休めなそうなんだよね」

「あっ、無理しなくていいよ。
 義兄さん、研修医だから我儘通せる立場じゃないでしょ。
 母さんと、姉ちゃんが付き添ってくれるみたいだから」


そんな会話をしている間に、
義兄さんのマッサージはフィニッシュを迎える。


マッサージの後は、
動かしやすくなってるような錯覚を感じる現実。



「義兄さん……ボク、
 いつまでこうしていられるかな」

ふと漏らしてしまった本音。

そんな弱音を聞き逃さずに、
義兄さんは優しく受け止めてくれる。


「瞳矢、『いつまでこうしていられるか』を考えるより、
 『今をどうしていたいか』を考えればどうかな?

 瞳矢が後悔のないように生き抜く為に。

 僕は近くにいたのに、こうなるまで気がつけなかった。
 ずっと傍にいたのにね。

 正直、僕が瞳矢と変わることが出来たらって思う時もあるんだよ。
 
 だけど……それは同情でしかないよね。
 
 同情は優しさから来るものだけど、憐れみからも来るものなんだよね。
 
 だから僕は精一杯、生きようとしている瞳矢の姿を『不憫』だと感じるだけで
 終わらせたくない。
 
 なら僕も医師としても兄としても出来ることがあるはずだって考えた。

 悩んで、友達の留学先にまで国際電話しちゃったよ。
 僕もどうやって瞳矢と向きあっていけばいいかわからなかったから。
 
 周囲にいる僕でもわからなかったんだよ。
 当事者の瞳矢がパニックになるのは当然のことだよ。

 だけど瞳矢、僕は僕にできる範囲でいつものように
 向きあっていればいいのかなって友達と話して感じたよ。

 いつものように振舞うことはとても難しい事だよね。

 だけど、それが一番大切なことなんだ。

 僕は僕のままで居ようと思ってる。
 だから瞳矢も瞳矢のままで居ればいいんだよ。

 悲しかったら泣いてもいいし辛かったら吐き出してもいい。
 瞳矢がぶつける気持ちの全てを僕が抱きとめてあげるから」


ボクの目を見て、ボクと向き合って一言一言を噛みしめるように
言い聞かせるように話してくれる義兄さん。