「真人、明日は諦める。
 だけど、三日後。
 三日後のピアノコンクールだけは絶対に来て。

 ボク、会場で待ってるから」




真人は振り返ることなく、車へと乗り込んだ。


真人を乗せた車が、
ボクの前を通過していく。




こんなにも近くに居るのに、
まだ文通をしていた離れていた頃の方が、
親しかったんじゃないかとすら思える。




だけど……やるべきことはやった。



ボクは後は、明後日の診察で告げられるであろう
検査結果に基づいた、病名の告知を受け止める準備。

そしてピアノコンクールへの最終調整を必死にやり遂げる。


一分、一秒。
ただ当たり前のように過ぎていく、その時間を大切にすること。



校門前から教室に戻って、
鞄を抱えるとそのまま帰路につく。



「瞳矢、乗れば?」


後ろから近づいてきた車は、
ゆっくりとボクの隣で止まって、
窓がゆっくり下がると、和羽姉ちゃんの声が聞こえた。


「姉ちゃん、今帰り?」

「そうよ。
 今帰り」

「今日もダンス?」

「そうそう。今日はジャズダンスとバレエで体動かしてきた。
 ほらっ、乗れば?」


促されるままに、助手席のドアを開けて車に乗り込むと
動き出す車。


「姉ちゃんさ、ある日突然、ダンスが出来なくなったらどうする?」



ボソっと呟いたその言葉に、
お姉ちゃんは驚いたように、ボクを見つめる。


「姉ちゃん、運転中だから前見てて」


慌てて声を荒げて、信号無視になりそうなところを寸でで阻止する。


「あっ……ごめん。瞳矢。
 瞳矢……何かあった?」

「何もないよ。
 ただ真人がツレないだけ。

 後は……コンクール前で神経質になってるのかな。
 別に気にしないで」


そうやって誤魔化すと、そのまま無言のままに自宅へと辿り着いて
自分の部屋へ直行する。


そのまま着替えを済ませて、
防音室に移動すると、プレイエルの蓋をゆっくりと開いて、赤いフェルトを取り除く。


姿を見せた鍵盤を指先で軽く触れた後、
何時もよりも念入りに、基礎練習である運指運動を繰り返していく。

縺れる【もつれる】指。

弾くのを諦めそうになるその指を何とか動かし続けて
30分ほど、ただひたすらに鍵盤の上を、運指し続けるピアノの音色。


その後は、地区大会用の課題曲
JS バッハのシンフォニア 第4番 ニ短調 BWV 790。
ショパンの練習曲集Op.10「黒鍵」。

そしてオリジナル曲でもある『STORY』の練習を続ける。


何度練習しても、音の粒が揃わない現実。

違和感ばかりで、思い通りにならない指を必死に宥めながら
今は、このボク自身の音とを向き合い続けることしか出来ない。


今のこの音が、ボクが奏でられる唯一の音色。
これすら、もうすぐ奏でられなくなる日が来るのだから。



何度もボロボロになった楽譜をめくりながら、
練習を続ける中、ふと携帯電話が着信を告げる。



表示されている名前は、穂乃香。



練習していた手を止めて、
携帯電話へと手を伸ばす。




「もしもし」

「やっと聞こえた……瞳矢の声」


電話の向こうの穂乃香の声は、
今にも泣きそうだった。


「連絡できなくてごめん」


ボクに言えるのはこの程度。


ずっと病院に通い続けてたからなんて、
穂乃香を余計に不安にさせそうで言えない。

それに穂乃香の父親は、
音楽家専門外来のドクターでもある存在。

散々、穂乃香に言われ続けて逃げ続けていたのは
真実を突きつけられるのが怖かったから。


現実を受け止めるのがキツかったから。


そして……、状況が変わったとはいえ、
今も家族以外この状況は知らない。