「おはよう。さぁ、座って。朝御飯にしましょう」

『真人……遅くなってごめんね。御飯にしようね』


母さんの声が聞こえた気がした。

全てが今の僕には遠いもの。

温盛。
家族。

全ては今の僕が失ってしまったもの。

僕は空白の時間を噛み締めるように、
瞳矢との時間を楽しんだ。

瞳矢の家で一緒に食事を貰って、
瞳矢の家族と団欒を楽しんだ。

僕を昔から瞳矢同様に可愛がってくれた、瞳矢の小母さん。
全てが懐かしかった。


昨日高かったらしい熱も今は、嘘のようにさがって穏やかな時間が流れている。

僕は一日中、瞳矢とピアノを奏で続けた。
時には連弾を重ね、時には瞳矢の演奏を聴きながら。

ピアノに触れている間は、僕を現実から遠のかせてくれる。
その夜……自宅に帰るまで……。


……帰りたくない……。



今日ほどあの場所に強く戻りたくないと思った日はない。







瞳矢と西宮寺先生に自宅まで送って貰った僕を迎え入れたのはあの人。

あの人は二人に会釈だけ交わすと、
無言で僕を家の中に入れる。

そしてすぐに出掛けて行った。

昭乃さんと勝矢兄さんがあの人をゆっくりと送り出す。


僕は玄関で立ち尽くして、
その後、逃げ出すかのように自分の部屋へと駆け上がる。

僕の足音を追うように、忙しなく駆け上がってくる二つの足音。

扉が乱雑に開け放たれて、
勝矢兄さんが僕に向かって靴を投げつける。

その靴は僕が玄関に忘れた一足。

靴は虚しい音をたてて、
床の上に落ちる。



「真人さん、本当に貴方って人は汚らわしいわ。

 本当に血は争えないものね。汚らわしい。
 アナタのお母さんも、あの手この手とずる賢い人だったけど。

 ホント、何て忌々しいのかしら?

 西宮寺先生は、勝矢さんを将来支えてくださる大切な人よ。
 アナタに優しくしているのも、本心じゃないと思い知りなさい」



汚らわしい?
忌々しい?

いつも繰り返され続ける言葉。

どうして?

西宮寺先生……それはあの人が
僕に決めた家庭教師で瞳矢のお兄さんで、別に僕が取り入ったわけじゃない。


でも……逆らえない……。


この家では悪いのは全て僕自身。

僕以外の悪者は存在しないのだから……それは僕が厄介者だから……。


「真人さん!!聞いているの?黙っていないで何とか言いなさいな。

 全く神楽さんは一体どんな育て方をしたのかしら?
 育ちが悪い方には、真人さんのように汚らわしい子が育つのね。

 昨日も本当は倒れていなかったんじゃないの?
 元気そうですもの。
 
 恭也さんを振り向かせる為に、西宮寺先生を巻き込んで一芝居打つなんて何を考えているのかしら。
 この家には勝矢さんがいるのですよ。真人さんなんて必要ないんです。

 それがわかったら今後はもっとひっそりと生活なさい。
 西宮寺先生にも金輪際近づこうだなんて思うんじゃありませんよ!!

 さっ、勝矢さん。退室しましょう」

昭乃さんは早々と部屋を退室していく。

部屋に残されたのは僕と勝矢兄さん。

僕は勝矢兄さんの方を見据えながら次に来るものに構える。



「何、見てるんだ?」

「すいません……」


謝罪しながら体を縮めていく僕に、また兄の一撃が脇腹から入る。

その場に蹲った僕に容赦なく、
二撃・三撃と暴行が続いていく。

鈍い痛みが体中に広がっていく。

立つことも出来なくなった僕の胸倉を掴んで立ち上がらせるともう一度僕を殴り飛ばす。

僕の体を遮るものはなく、強く壁にうちつけられる。



「おい。お前はこの家の厄介者なんだ。
 厄介者は厄介者らしく暮らしてろ!!」


兄は罵声を浴びせると足音が遠のき、ドアが閉められる。

僕は床の上に倒れたまま体を動かすことすらままならない。


今は閉じた目を開く事すらも億劫で何もする気にはなれない。





お母さん、ごめんなさい。



また僕のせいでお母さんが悪者にされてしまいました。
僕はいつまで此処で生き続けなければいけないのですか。



こんなに苦しい時間の中で。
今はもうこの時間が止まって欲しい。



僕の息の根と共に……。