練習不足で
思うように動かない指。

その指で
必死に紡ぎだす音色。

精一杯の今の僕自身。

一気に弾き終えた僕の心に小さな達成感が芽生える。

隣人の瞳矢の方を見ると、瞳矢はまた静から涙を流していた。
 

「瞳矢……」

「ゴメンゴメン。何か懐かしくて感慨に耽っちゃったら
 涙が溢れて来ちゃったよ。
 やっぱり真人も約束守ってくれてたんだね」

「何か久しぶりに触った。やっぱり僕、ピアノが好きみたい」


瞳矢の前で自然と笑みが零れ落ちる。


「……やっと笑った……」

瞳矢も僕の方を見て、もう一度にっこりと微笑む。


「真人、ずっと元気がなかった。
 笑ってたけど目は笑ってなかったからずっと心配してたんだ」

「……ゴメン……」

「また謝る……。でも今日久しぶりに良い物見れたもん。
 さっきの笑顔が一番似合ってるんだよ。真人にはさ……」

「瞳矢、気づいてたんだ」


「……うん……。
 ボクと真人、随分前からの友達なんだよ。

 一人で苦しまないで、ボクに話せる事とがあったら話してよ。
 一人で抱えるとロクな事考えないんだから」

 
瞳矢の心が嬉しかった。
その反面、自分自身をとても弱々しく感じてしまう。

ふいに防音室の分厚い扉が開かれる。


「瞳矢、此処にいたんだね」

「義兄さん」

「おはよう。瞳矢、真人君。

 朝御飯の準備が出来てるよ。
 お母さんが待ってるからダイニングにおいで」


長身の見慣れた顔の男性が顔を覗かせる。
確か病院で何度か見慣れた容姿。

「その前に真人君はこっち。
 熱、下がった?」

その人の手が僕の額に軽く触れ僕の手首に触れる。


「大丈夫そうだね。
 もう無茶しちゃ駄目だよ」


その人はにっこりと微笑んで僕に言う。


「あの昨日は御迷惑おかけしました」

「そんなの気にしなくていいから。
 真人君、瞳矢と仲良くしてあげてね」

誰だろう……。
顔は見たことあるのに名前が思い出せないよ。


「真人、和羽ねーちゃんの旦那さん。
 僕の義兄さん。

 真人、何度か病院であってるよね。
 
 義兄さん、多久馬総合病院で働いてるから。
 西宮寺冬生っていう名前なんだけど……わかるかな?」


西宮寺冬生……。


その名前に、
引っかかるのは幼い日の僕の記憶。

西宮寺の名字は、僕の心臓を助けてくれた
勇生先生たちと同じ。

そして病室で僕を遊んでくれたのは、冬兄ちゃん。

だけどあの人が僕にお願いした家庭教師。





ぞうやって切り出したらいいのかわからなくて、
一番無難な、家庭教師と言う言葉を前面に押しそうと選ぶ。



「父がお願いした、家庭教師の先生ですね……」

『父』と言う言葉が、僕を苦しめる。


だけど……、あの人は僕の父親。
あの人の名前をにっこり笑って告げられるようにならないと……。
瞳矢の兄さんは、あの人の病院の医師なのだから……。


「そうだよ」

「義兄さん真人、食事に行こうよ。
 その後、真人また此処でピアノを弾いて過ごそう。
 今日一日。夕方まで真人は此処に居て。

 それで晩御飯も一緒に食べてから、僕と兄さんで自宅まで送るから。
 いいよね。義兄さん、昨日そう言う約束だったもんね」

「いいよ。真人君、今日は一日ゆっくりしていって。夕方、僕が送るから」

「有難うございます」

久しぶりの朝食。

珈琲の薫る空間。
テーブルの上に並べられた朝食。