瞳矢の冷たい指先が僕の額に触れる。


「熱、薬効いたみたいだね」


体温計の数字を確認しながら瞳矢が言う。

「えっ?」

「真人、昨日は凄い高熱だったんだよ。
 雨の中傘もささずに歩くんだから。

 真人の家には義兄さんが連絡してるから安心していいよ。

 ほらっ、もう少し朝まで早いし……もう一眠りしようか?
 朝になったまた義兄さんが様子を診に来てくれると思うから」

「あれっ?瞳矢はお姉さんだけじゃなかった?」

「和羽ねーちゃん、結婚したんだよ。
 だから義兄さんは旦那さん。
 
 ほらっ、真人も眠る眠る。
 電気はどうする?」

「瞳矢がいいならつけたままがいいな」

「じゃ、電気はつけっ放しにして置くから、もう少し休もう」

「……瞳矢……、休んでいいよ。僕はもう少しこのまま起きてるよ」


あの時間を体験した後は眠るのが怖くなるから。



「だったら僕も起きてるよ。

 真人がベッドから動けそうなら、気分転換できると思うから
 隣の部屋に移動したいんだけど」

「うん。
 多分、動けるはと思うよ」


そう言うと瞳矢はベッドサイドに歩いてくると、
僕の手を取ってゆっくりと立ち上がらせると、
傍に会った洋服を僕に羽織らせて隣の部屋へと引っ張って行く。

瞳矢に腕を引っ張られながら、過ぎ去った時間を流れを思い出す。
小学校の頃、瞳矢の腕を引っ張っていたのは僕。

その瞳矢が今は……僕の腕を引っ張ってくれる。

瞳矢の掌から伝わってくる温盛を今は精一杯感じていたい。
この温盛を感じられる間は、僕は独りじゃないと思えるから。


「真人」

瞳矢の声が僕を現実に呼び戻す。

「……見て……」

僕の目の前には外国のグランドピアノが一台。

「瞳矢……もしかして……」

「うん。そうだよ。僕のピアノだよ。
 やっと手に入れたんだ。

 今までこのピアノは誰にも触らせなかったけど真人は特別」


瞳矢は僕の背中を押してグランドピアノの前に座らせる。

僕の目前に広がる白と黒の原石。


この原石を磨く事によって至上の歌が誕生していく。


「真人、ピアノ続けてるよね。
 真人の手、ピアノを弾いている人の手をしてるもんね。
 昔、約束したよね。
 今度逢う時もまた一緒にピアノ弾こうって」



約束……覚えてる。



あの頃は僕の家にスタインウェイがあって、
瞳矢の家にはピアノがなかった。

 
でもあの頃の僕と今の僕は違うんだ。


僕もピアノは大好きだよ。
だけど僕がどんなに望んでも自由に歩く事は出来ない。



「真人、どうしたの?
 触ってみてよ。

 ボク、ピアノはずっとプレイエルが欲しいって
 言ってたの覚えてる?」



うん、覚えてる。
プレイエルは、フランスのメーカーでショパンが愛した音色。


瞳矢はショパンが好きだったよね。
だから……ずっと言ってた。


『プレイエルピアノを
   僕は手に入れるから……』



「昔はボクの家にピアノがなくて
 真人の家には、 スタインウェイの大きなピアノがあったんだよね。
 小母さんの大切にしていたピアノ。

 ずっと真人の家でピアノを借りて、ボクは今の未来に繋げたよ。
 だから……何て言うのかな……。

 今度はボクのピアノを使ってよ。

 弾きたくなったら此処においで。
 この子も真人が弾いてくれたら凄く喜ぶと思うから」