春休み。

私は年下の彼氏である、檜野瞳矢【ひのとうや】と一緒に
パパのところへ出掛けようとした。

だけど瞳矢には断られて、一人でパパのもとに出掛けた。

数日、向こうで過ごしてパパのリサイタルにあわせて帰国。

その後、パパは日本で五か所で行われたリサイタルを無事に終えて
今日向こうへと戻って行った。


今日は聖フローシア学院も入学式。

在校生の私は、休みの日だということをいいことに
こうして空港までパパを見送ってきた。


そして、それと同時に今日から、
瞳矢もまた高校生へと入学する。



チラリと腕時計を見つめると、15時半を回ろうとしていた。

聖フローシアの部活動も今日は休みの為、
何時もより早めに、ピアノ教室のドアを開いた。



レッスンカードを受付に出して、
今、目の前で演奏している瞳矢の練習に視線を向けながら
私はソファーへと座る。





瞳矢は、何度も鍵盤に指を走らせながらも
同じ場所でつまってしまう。

つまってしまうたびに、手を開いたり握りしめたり。



手に違和感でもあるのかも知れないと、
不安を感じる。



私たち演奏をする者にとっては、
僅かな違和感も致命的。


だけど練習に、炎症は不可欠で……
だからこそ、予防が必要となっていく。


それは音楽家専門外来をしているパパの受け売り。


レッスンの待ち時間。

瞳矢君のレッスン風景を見守りながら、
私は手の柔軟をゆっくりと始めた。



何度も何度も同じどころで演奏が止まってしまう瞳矢。


『はい、そこまで。
 瞳矢君、もう弾かなくていいわ。
 何度言ったらわかるの。
 その場所はもっと滑らかに 情緒的に演奏なさい』

『すいません。
 もう一度、お願いします』

何度も何度も、演奏が止まって
最終的には先生によって演奏したいと願う瞳矢の想いは制される。


『瞳矢君、止めなさい。
 止めていいわ』


先生の声が響いたのと同時に、
強制的に鍵盤から引き離される瞳矢の指。

『やる気がない人は
 ピアノに触れなくて結構です。
 
 コンクールまでもう時間がないのよ。
 今日は見学してなさい。

 次、浩樹君。
 課題曲の英雄からいきましょう』


言い放った先生の言葉に、
瞳矢は辛そうな顔を浮かべながら、
一礼して、レッスン待ちの人たちが座るために用意されている
ソファーの方へと歩いてくる。

すかさず、私の隣の席に座れるように手招きすると、
瞳矢は、今も沈んだ顔のまま私の隣へと腰をおろした。


「瞳矢、最近どうしたの?
 いつもあんなところで、指が止まるなんてことなかったでしょ?」

「少し疲れてるのかも」

瞳矢は短くそう告げて、
レッスンを始めた、瞳矢の親友・飛鳥浩樹【あすかひろき】の演奏を
ボーっと見つめ続ける。


「本当に?

 春休みだって瞳矢、お父様が帰国した時に
 我が家に来なかったじゃない。
 
 お父様だったら、瞳矢の指の原因わかったかも知れないでしょ」


家では、小さい時の影響で「パパ」って呼んでるのに、
パパ以外の人の前では「お父様」と呼んでいる父の呼び方。


瞳矢はその後も黙ったままで、
ずっと手を気にしているみたいだった。


『はい。
 浩樹君、大変結構です。
 
 来週は自由曲のピアノ協奏曲の仕上げに入りましょう。

 瞳矢君は来週も課題曲を。

 最近、弛んでるわよ。
 来週こそは次の準備にかかれるように万全の体制でいらっしゃい。
 
 いいわね、二人とも。
 コンクールまで、一ヶ月も残されていません。
 もっとももっと力をいれて練習してください。

 じゃあ、瞳矢くん浩樹君はお疲れ様。
 穂乃香ちゃん、レッスンを始めましょうか?』



先生の声が私の名を呼んだとき、
私はゆっくりと経ちあがって、
飛鳥くんと入れ替わるようにピアノの方へと向かう。


瞳矢は飛鳥くんと何か言葉を交わして、
そのままレッスン室を出ていった。




瞳矢と距離感を感じるようになったのは、
今年に入ってから。