六月から定期的に治療で投薬が始まった瞳矢。

投薬期間と休薬期間を順番に繰り返しながら、
もうすぐ三か月になろうとしていた。

休薬期間中に二学期を迎えた僕たちは、
いつもの日々を送ろうとしていた。


「瞳矢、真人くん、そろそろ準備はできた?」


階下から、和羽姉さんの声が聞こえる。

慌てて制服に袖を通して鞄を持つと、
僕は自分が借りている部屋を後にした。

そしてそのまま隣の部屋のドアをノックする。

「瞳矢、準備はどう?」

声をかけるものの、瞳矢の反応は癇癪を起しているようなうめき声。

慌てて「入るよ」っと一声かけてドアを開けると、
そこには、筋肉が突っ張っているのか、思い通りにコントロールできない右手を
必死に伸ばそうとする瞳矢の姿が見えた。

慌てて瞳矢の傍へと駆け寄って、
両方の手を包み込むように僕は手を重ねる。

「瞳矢……」

ようやく我に返ったような感じで、瞳矢は「真人」っと僕の名前を呼んだ。

「瞳矢、何時からなの?」

「見られちゃったなー。
あんまり見られたくなかったんだけど……。

数日前からかな。
時々ね。

指がピクピクって突っ張ったような感覚になって、
暫くしたら脱力したように力が入らなくなる」

「冬兄さんは知ってるの?」


その問いかけに、瞳矢はゆっくりと横にふった。

「先生には伝えてるけど、兄さんにも家族にもままだ伝えてない……。
今はしばらく時間が過ぎたら手の症状も落ち着くから。

ずっと六月から投薬治療を続けてきたし、
皆、その薬に希望をのせてここまで来てる。    
 
完全に治す薬じゃない。
症状の進行を遅らせる薬だって、
その意味を嫌ってほど感じ取ってるところ」

そういった瞳矢の低い声が、
僕の心に重くのしかかった。


「ごめん、姉ちゃん。
すぐ行くよー。夏休みの宿題、まだ終わってなくて格闘してたー」

なんて嘘を明るい声で出すと、
瞳矢は、にっこり笑って部屋を出ていった。

「もう、瞳矢。何してるのよ。
二学期も始まってるのに夏休みの宿題って」

「宿題、大変なんだよー。
ほらっ、右手でペン持つの大変なの知ってるだろ」

そういって、瞳矢は今、右手が不自由なのを受け止めて当たり前のように
振舞いながら会話を続けようとする。

「一度、姉ちゃんもしてみる?
シャーペンに、ふわふわの握りやすくしたスポンジまいて文字書いてみ?
慣れるまで結構、しんどいてよー」

なんて笑いに変えるように振舞う。
そんな瞳矢を見ているのが苦しくて。


「そんなの私もやったことないわよ。
だったら今度、
何かの書き物するときに瞳矢のペン借りてやってみるわよ。

私がすらすらーっと書けたら、
瞳矢が宿題に間に合わなかったのは瞳矢が悪いってことよねー」


なんて笑い返すように和羽姉ちゃんも切り返した。 

そんな切り返しに瞳矢は、笑ってた。

僕だったら、どう言葉を返していいかわからなくて、
何も言えないまま黙ってたかもしれない。


「さっ、二人とも学校行ってきなさい。

今日は冬が帰ってこない日だから、
私も久しぶりに音羽と食事してくるから。

夕飯だけは作って出かけるから、
母さんが帰ってきたら温めて一緒に食べて」


そう言うと、
和羽姉さんは僕たちを家から送り出した。


まっすぐに駅まで向かう僕と瞳矢。
自宅の最寄駅から電車に乗って、その後、学校まで徒歩で向かう香宮学院。

駅に着くと、飛鳥が改札で僕たちを出迎えた。


「おはよー。瞳矢、真人」
「おはよう、浩樹」
「おはよう、飛鳥」
   

最近の三人グループが揃ったところで、
学校までの道程を三人で歩いていく。


    
「浩樹、ピアノは順調?」

ふいに瞳矢が何気ない感じで、
ピアノの話題をふる。

突然の話題に、一瞬、戸惑いながらも飛鳥は切り返す。

「どうだろうなー。
まだ仕上がりは甘い気がするな」

「今はまだ八月だから甘くても大丈夫だよ。
本番は十一月。
最近は、どんなレッスンをしてるの?」

「今は個人練習が中心かなー。
けど、この間珍しいやつが訪ねて来たんだ。

羽村が少し稽古つけてくれた。
稽古って言うより、きっかけを作ってくれたのかもな。

すぐに出かける用事があるとかで、
タブレット渡されてた。
その向こうには、羽村冴子だぜ。

もうテンション上がってレッスンどころじゃなかったぜ。
アイツ、本当にあの人の子供だったんだな」

テンション高めで切り返す飛鳥の言葉。
咲夜が気遣って、飛鳥のこともフォローしてたのは知らなかった。


「ボクは羽村君のお母さんのことはあんまり知らないけど、
ずっと浩樹にとっては憧れの人だったもんね。

いいなぁー。
憧れの人のレッスン。
叶うなら、ボクはもう一度神楽おばさんのレッスンを受けたかった。

今、こんな風になってもピアノを諦めたくなくてあがいてるボクに
おばさんだったらどんなアドバイスをくれるかなーっとかさ。

きっと、どんな状態でもピアノの楽しさを失わないように教えてくれると思うんだ」

そういいながら瞳矢は、何かを思い出してるみたいだった。

「おっ、学校だ。
ちょっと俺、寄り道していくから、先に教室行っといてくれな。
後、真人んとこのおばさん。
俺も、あってみたかったわ。

羽村がさ、ちょっとウォームアップっていって弾きだしたメニューが大変だったんだよ。
けどそのやり方は、真人のかーちゃんに教えてもらったやり方だって、
嬉しそうにいってたからさ」


咲夜の心の中にも、瞳矢の心の中にも
母さんはちゃんと存在していて、それぞれの思い出になってる。

ねぇー、母さん。
僕は瞳矢の為に何が出来る?



学校の授業が始まると、
僕は教科書をめくりながらも、
なかなか集中できないでいた。


瞳矢の病気は……
点滴の成果が出てるのかどうか気になってる。

右手の脱力や浮腫みは以前に比べて
強く出てるような気がするし、
スプーンやフォークも持てる者の、口元には運びづらくなってる。

柄は、細いものよりも太い方が握りやすくなってるもみたいで、
いろいろと生活スタイルが変わってきてるのも現実だった。


ただ……僕は瞳矢の先生から話を直接聞くことはできないし、
瞳矢からもなかなか話してもらえない。

閉ざしたい気持ちがわかるから……。

自分で閉ざして蓋をしてしまいたくなる気持ちもわかるし、
それだけじゃダメだって言うのも、
僕には痛いほどわかる。

     
僕は……君に何が出来るんだろう。


誰かの癖を感じ取って真似するのは得意なんだ。

だからプレイエルを演奏するとき、
僕は無意識のうちに瞳矢の音色に似せようとしてしまう。

僕の癖からなってしまうものだけど……、
完全にピアノを演奏することが出来なくなったら、
僕は瞳矢の指になる?


なんて、そんな馬鹿げたことすら想像してしまう。


その日の放課後、
学校が終わって僕たちは校門前で別れた。

瞳矢は通院日の為、おばさんと出かけた。
そして僕は、バスに乗って父の病院へと足を運ぶ。


「あらっ、真人くん。こんにちは。
学校終わったのね?」

多久馬総合病院のエントランスには、
冴子おばさんから送られグランドピアノが展示されていた。


ふと引き寄せられるようにピアノへと向かう。


鍵盤の蓋を開けて、フェルトを取り除くと、
ゆっくりと鍵盤の上に指を乗せた。


一呼吸して、その位置から周辺を見渡す。
あっ、あそこにいる子供、ちょっと気になってそうかも。
    

そう思いながら、僕は軽く目を閉じて鍵盤の上に指を走らせた。

確か……、母さんとよくやってたんだ。
こんな遊びを……。


ミスタッチも気にせずに鍵盤に指を走らせ始めたのは、
大好きなリストの鬼火。

超絶技巧を無心に弾いていると、
雑念がなくなって、頭の中がクリアになる瞬間がある。


中学生の僕が超絶技巧ばかり好んで演奏してたのは
ただ無心になれるのと、母さんに負けたくなかったから。

咲夜に負けたくなかったから。

短い間、咲夜と暮らした中で
僕にも闘争心があったことに気が付いた。

そんな僕自身に気づかされた鬼火。

気が付いたら、3分少しの時間はあっという間に過ぎて、
僕は最後まで演奏を終えていた。

観客がないまま演奏していた僕の傍には、
気が付いたら輪が広がっていて、
拍手が広がってた。


「真人くん、やっぱり神樂さんの息子さんなのねー」

そういって、浦和さんが話しかけた。


「あっ、ごめんなさい。
父の部屋に行かないとでしたね」


慌ててピアノの蓋を閉めて、
演奏を聞いてくれてたと思われる人たちに、
小さくお辞儀をすると逃げ出すように、
その場所を後にした。


「あらっ、真人くん。どうして逃げるの?
ピアノ素敵だったわよ。

指が鍵盤の上で踊っているみたいね。
神樂さんが演奏していたのも凄かったけど、
真人君も凄かったわ」


純粋な思いで伝えてくれる浦和さん。   
だけど僕の音色はまだ完成していない。

そして今は、この音色を完成すべきなのか、
それを後にしてでも、
僕が瞳矢の指になる……のがいいのか悩んでる自分がいる。


無心になってピアノを演奏しても、
答えは出なかった。


エレベーターに乗り、父が待つ部屋へと向かうと、
白衣を脱いだ父がソファーに腰かけて待っていた。


「真人、階下が賑やかだったね。
昔、神樂が演奏してくれていた時代が懐かしい。 

また何時でも、真人が演奏したいときに
演奏してくれるといい。

 時には神樂がしていたみたいに、
患者さんたちからのリクエストを聞いて演奏するのもいいかも知れないな」


そういいながら、父は懐かしそうに目を細めた。


「父さんは病院でも、愛の夢を演奏してもらったの?」
「父さんにとって、神樂が奏でる愛の夢は特別な曲だからな」
「そう。
なら、今度は僕も演奏しようか?」
「あぁ、楽しみにしている。
さて、聞かせてくれ。最近の真人の気持ちを」  


そう言うと父は、僕が話し出すのを静かに待つ。


最近は、ダンプカーが走って揺れても、実際の地震で揺れても
なかなか発作を起こしづらくなったこと。

だけど檜野の家にいて、
瞳矢との距離感、瞳矢との接し方に悩んでることを這い出す。


「真人、ALSと言う瞳矢君の病気にまつわる資料は
前にも勉強したね。
そのうえで、真人は瞳矢君と過ごすことを選んだ。

今は逃げ出さずに、心のままにつきすすみなさい。
ただ悩みぬいた先の道で、迷路になって戻って来れなくなったら、
その時に私は力になろう。 

今は真人が、瞳矢君の為に考えて動くことが大切だ。

薬はまた少し調整しておこう」

「……父さん、檜野の家にいて冬兄さんが沢山抱え込んでるのが見てて伝わってくる。
だから……」

「あぁ、冬のこともちゃんと見ている。
真人は心配しなくても大丈夫だ」

父のその言葉に、目を閉じて頷いた。

「私ももう上がる時間だ。
真人、檜野家まで送ろう」

そう言うと父も鞄を持って帰宅準備をする。

父の電話で車が病院の裏口へと横付けされて、
僕は父の車の助手席へと乗り込んだ。


父の車内は、いつも母さんのピアノの音色で包まれていた。

後部座席に体を預けるように、
僕はその音色のゆりかごに包まれて眠りの中へとと誘われていくみたいだった。


気が付いたら檜野の家の前で父に体を揺り起こされた僕。
慌てて体を起こすと、瞳矢たちも帰宅したばかりのようだった。 


「あっ、お帰り。
真人。こんばんは、多久馬先生」

「あらあらっ。
院長先生、いつも冬生がお世話になっています。
よかったら、あがっていってくださいね」  

そういって、優しく迎え入れる檜野家に、
父は運転手に、少し立ち寄る旨を告げて車を降りる。

父の車は何処かへと移動すると、
いつの間にか手にしていた手土産を檜野家へと渡していた。


「真人、制服を着替えたらプレイエルの前へ集合」

瞳矢はそう言うと、自分の部屋へと着替えに戻る。

僕も自室へと戻って服を着替えると、
リビングと繋がっている瞳矢のプレイエルの部屋へと戻った。


ドアを開けっぱなしにしているので、
プレイエルの音色が家中に広がっていた。


階下では、瞳矢の左手が、軽やかに鍵盤の上を走っていた。


慌てて、瞳矢のもとへと行く。

「瞳矢っ、それって?」

「どうかなー、ちょっとまだ難しくて完璧には出来ないんだけど、
オーケストラパートを左手だけで演奏してみたんだ。

超絶が得意な真人なら、
もっと動かしやすい方法、知らない?」

そういいながら、瞳矢は楽しそうにプレイエルと向き合う。


「真人がボクの指になってよ」

そういって紡がれた言葉。
それはボクが考えていたものと全くの別のものだった。


胸のつかえが溶けた瞬間。

僕は、瞳矢の指になるべく、オーケストラの譜面から、瞳矢が抜き出した音を拾い集めて、
それを超絶に聴こえる感じに、音と指使いを抜き出して、鍵盤に乗せていく。


「左手のピアニスト。
今のボクの夢は、左手のピアニストだ」


瞳矢の自身に満ちた曇りのない音色は、
この先の未来への希望すら感じらせる音色だった。


「瞳矢君、素敵な演奏を聞かせてくれて有難う。
今度、多久馬の病院で、瞳矢君がミニコンサートを開くなんてどうだろう。
昔は、真人の母親が演奏して、時折、冴香さんが演奏して……今度は真人が演奏してくれる。
そこに瞳矢君も一緒に出てみないか?
無論、出演料も支払う」

突然言い出した父の提案に、僕たちは驚くばかりだったが、
瞳矢のおばさんは嬉しそうに「有難うございます。院長先生」と微笑んだ。



その日、父は和羽姉さんが作ってくれたご飯を一緒に食べて、
僕と瞳矢が奏でるピアノを楽しんで、檜野家を後にした。


瞳矢に僕が出来ること。
ずっと迷走していた答えが少し見つけられた気がして、
僕は僕自身の音色も探し続けたいとそう思った。